あやかや言う
マウント合戦
どうやら人は自分のほうが偉いというようなマウント合戦に終始する傾向にあるようだね。とにかく人のいいところをフォーカスするわけではなく、むしろ悪いところや弱いところに注目をしてしまうらしい。それにその人の弱点を素早く見つけたらしめたもので、そこを徹底的に攻撃することでなぜか自らの正しさを強く主張するわけだ。もちろんそれがそれで真実であったとしても、そのことでたくさんの人が幸せになるわけでもなく、ただただ自らの行為の正当性だけを担保するだけのことだ。そんなあなたにでさえ意見をしてくれるだけましだとか、ありがたいという事実はそうであっても、言われる当人にしてみればだからどうしたという感想でしかない。すなわち、本来の特殊性だとか希少性の正当な評価を下しているようで、実のところはほとんどがマウントポジションを確保するための行動であったりもするわけだね。
食うか食われるか
まさにそれは、生きるチカラをどう表現するかという問題に尽きる。どんな人であっても自らの存在価値を確かめるために、その競争というか比較に際して真っ当な理屈を語ることになる。それは決して事実である必要はなく、その世界の都合の良い解釈を当てはめてどうだということに尽きるわけだ。それが彼らの生きる術であり、そのプライドをいかに誇示するかということにすべてがあるだけのことだ。ネガティブなことが悪となり、ポジティブなことが正となる。そんなシンプルな論理でもって、自らの正当性を指し示しているつもりになっているけれども、現実としてはそれを受け止めることができないだけのことで、本来の意義はそれらをどのようにしてすべてはそのありのままをどう捉えるかということだね。そのための理屈をもっともらしく生み出すわけだけれども、実のところはそれらはなんの効力も発揮しない虚勢だけとなる。
正義
一見正義はこれだよと主張している形での発言であっても、その裏側にあるものはそれとは関連しない単なる嫉妬心だったりするわけだ。だからこそ、その言葉自体の発言そのものよりも、これまでの行動をしっかりと見極める必要があるわけだ。いいことや悪いことは実は誰でも簡単に言うことができるわけだけれども、実際にそのための行動を起こすということはそれとは比較にならないぐらいのエネルギーが必要だね。だからいちいち発言に関してなにか反応することは必要ない。そんなものよりも、これまでのアクションの総括をしてみれば簡単に本質を見抜くことができるわけだ。どちらが本質かと問えばすぐに気がつくことができるね。ましてやなんだかんだそれで言われるようなことでいえば、そんな些細な発言に関してあなたの心を砕くことも必要もない。なぜならそれらはあなたが恨めしくて言ったことに過ぎないのだからね。もっと言えばあなたがそれだけ強烈な存在だからこその揶揄なんだから、それはそれで放っておけばいいだけのことだよ。