思い出のわたし

日々

どんどん古くなる

懐かしい場所に行ってみると、細かいところがどんどん変わっていることに気づくね。あら、こんなお店ができたんだとか、ここは前からこうだっけ?なんて思いながら歩く。ああ、ここは相変わらずだなと中に入ってみると、レイアウトや什器が変わっていたりする。だからこそ、変わらないものが愛おしく感じるんだね。時間が流れて町並みもそれに合わせて変化していくのは避けられないんだけれど、その中で変わらないものが辛うじて残っている奇跡をそこにみている。同じ日は二度とこないのは頭では理解しているつもりだけれど、心の中の風景はずっとあの時のまま。目の当たりに見ている風景とのずれを一つ一つ確認して、驚きと喜びと寂しさみたいな感情が一気に押し寄せる。

わたしもそこにいない

町並みにぽつんといるわたしも気がつかないうちにどんどん変わっている。変わらないものなんてどこにもないけれど、頭の中のわたしはタイムワープしてそこにいる。だから現実と古い意識のギャップが生まれる。いつも顔を合わせている友人でさえ、以前の友人とはどんどん変わっているはずだよね。それと同じく今のわたしも変わっているのは間違いない。だって、思い出の写真の中のわたしはいまのわたしとはまるで違っている。でも自覚としてはずっとわたしはわたしのままと思いこんでいる。どれもこれも、きちんと見ていないから起こることだよね。いかに普段はきちんと見もせず、勝手なイメージで省略しているかに気付かされる。つくづく、今まで一体何を見ていたというのだろう。

すべては変わり続けている

昨日まではとても暑くてたまらなかった。それで今日も暑いんだろうなと外に出てみると、照りつける日差しがなんとなく和らいだ気がする。季節が変わることは当然知っているはずなんだけれど、体感することで、ふとそのことを思い出す。それまではすっかり忘れていたというか、もう意識のほとんどは暑さばかりに気を取られて、そのことばっかり文句を言っていたよ。まるで季節が変わることを全く知らないかのようにね。よく考えるとわたしはいつも目の前に起きたことを「あーだこーだ」と言ってきた。どれもこれもずっとそのまま、同じままのものなんて見たこともないはずなのに。それでもいちいち何度も「あーだこーだ」と文句言う。「あーだこーだ」言っているうちに、そうじゃなくなって変わったことに気づくと、一瞬自分がどこで何をしているのかも迷子になっている。同じことを何度も何度も繰り返しているね。側からみたら滑稽にしか見えないね。たぶんコントのように。

時間はわたし

変わって欲しいものも欲しくないものも、わたしの思いとは関係なくどんどん変わっていく。いまのわたしは一体どこにいるのだろう。振り返るとほとんどが一瞬のこと。その瞬間がいまも刻々と流れている。わたしの勝手な欲望で「変わって欲しくない」と思う風景もどんどん流れていく。流れていくように見えるのは、そこにはいない、どこからか見ているわたしがどんどん変わっているからなんだね。そしてそれを見たという体験だけは不思議なことにずっとそこにある。わたしが時の流れを生み出しているとすれば、すべてを変えていっているのもわたしということ。見ているわたしが流れる時間そのものってことかな。