専門バカ

日々

内と外

仲間内であれだこれだと議論をしたところで、堂々巡りに陥ってしまって結局時間と体力だけが消耗され、なんら新たな結論が生まれなかったことを経験しているだろう。そもそもいわゆる中の人があれやこれやと思いついたそれらを検討したところで、新発見と呼ばれるソリューションや方法を見出すことは困難を極めるからだ。刻々と変化している世界を俯瞰して見られるのは内側からではなく、それを外から眺めている人だからだ。中の人になってしまうと、その気付きはよっぽどのなにか秘策がないとなかなか思いつかない。だからそういうときは、同僚や仲間であれこれと議論するのではなく、全く関係のない人たちの、ある意味他人事のような意見がとても参考になるわけだ。けれどもそこに二重の罠があって、こっちの都合や事情もよくわからない人の意見なんてそもそも的外れだと感じてしまい、それらにきちんと向き合うことすらしないのがほとんどになってしまうわけだ。

専門家

専門家という自負がある人にも同様なことが言えるね。もっぱらそればかり研究してきた人に対して、いわゆる素人が素朴な疑問を発したところで取るに足りないものだと真剣に取り合うことは、ほとんどないだろう。もちろんそこで最も重要なことは、それでも謙虚に返答しようとする姿勢だね。専門家はとても狭い世界で誰が一番だとか言っている人が多い中で、そんなことよりも門外漢の意見を最も大切な示唆として受け止めることができる人こそ、本来一番すぐれていると言って良いはずだ。しかしながら実際のところ、その一点集中だけで専門家気取りの人たちは、そういう意見をノイズだとしか捉えない。まさに専門バカと呼ばれてしまうのはそういう構造に陥ってしまっているからだね。もちろん他の誰よりもそれに対しての知見を持っているという自負があるのだろうけれども、だからこそそれらを再検証する必要があるというのにね。

整合性

言っていることが気まぐれで、日によって全く違うことばかりだと信頼されない。それは単なる気分でその時々でそう思ったことを述べていると判断されるわけだ。けれどもそれのどこが取るに足りないという根拠になるのだろうね。日々変化している世界において、あなたも誰かも皆刻々と変わり続けているのは厳然たる事実であることを知っている。変化をやめればそれは変化の停止を意味しており、それは自然の一部である生命維持が止まることを意味している。そもそもすべての知見や叡智はあなたや誰かがが変化し続けているからこそのものであり、それも刻々と変化していくものだね。そのきっかけはあなたの同僚や仲間ではなく、外側から見ている人の素朴な疑問から生まれる。だからそれをスルーしたり真摯に対峙しないのは、すなわちあなたの死をも意味する。専門バカになっていないかどうかを常にチェックしたほうがいいのはそういうわけだよ。