どっちも愛
守る
愛しい人を守るという行動は理屈ではない。すなわち本能的なものであって、特に弱い存在だと認識しているのならば多少過剰になるぐらいになってしまうこともあるね。特にかわいい我が子がまだ幼いときには、その本能はフルに発動されるのが自然だろう。そうやってあなたに守られて成長していくにつれて、今度は子どもが自立しようともがき始めるわけだ。そうしていわゆる反抗期という時期を経て自立したヒトに巣立っていく。ところが最近ではその反抗期が見当たらない子どもたちが増えているらしい。それは特に自立しなくても生きていけるぐらい状況が変化したせいでもある。特段親から巣立たなくても、ある程度の年齢までは安泰に過ごすことができる背景がそこに見え隠れしている。だから愛情とは守ることだけが強調されるようになり、なんでもかんでも優しくサポートしてくれることだと勘違いしてしまうのはもはややむを得ない時代かもしれないね。
信じる
一方で、いつまでも親の庇護で生活していては、万が一親がいなくなってしまったり、離れ離れに暮らさざるを得ない状況になったときに困ってしまう。だからほとんどは、ちょっと放っておいて自立を促すこともする。それは守るという愛から信じるという愛に変化したとも言えるね。あえて黙って見ているだけで、手を出したり助けたりしたいという本能的な衝動を抑えるようにするだろう。少々の失敗によって痛い思いをさせてしまうけれども、そのことによって将来の生きる力を身に着けてほしいという思いも、間違いなく愛の範疇だね。可愛い子には旅をさせよ、という言葉がまさにそれで、あえて苦労や失敗を身を以て体験させることで、なにがあっても生き抜く力を身に着けてほしいという愛情の裏返しでもある。手取り足取りするのも、あえて突き放すのも一見真逆の行動ではあるけれども、すべてが愛の範疇といえるわけだ。そこでの苦難や失敗は、貴重であり人生の糧となる一生の宝となる。
外注
現代社会においては子育てのコストは安くはなくなった。保育園から習い事、学童や塾などのいわゆる親に変わって面倒を見てもらうための出費は相当なものだね。そしてそれらの原資を稼ぐために親はますます子どもと一緒に過ごす時間が減っていってしまうというジレンマを抱えているわけだ。我が子が生まれて僅かな育休を経て、その後は預け先を探す日々が続いてしまうのは、これまで以上に稼がないと家計が回らなくなるからだね。そうやって気がつけば大切な幼少期に親子が一緒に過ごす時間がそれほど多く取れない家庭が多いだろう。もちろん親はなくとも子は育つ、といわれるぐらいだからべったりと一緒にいるのも必要はないだろう。幸せになるためには共働きしてなんとかやりくりできているのなら、それは幸せと言って良いね。でもできることならちょっと習い事を減らしてでも、特に何もしないで、そばにいる時間があってもいいかもしれない。表面的なスキルよりも、もっと大切な愛を感じられる空間となるからね。
