愛憎劇
完璧主義
理想や夢が大きすぎて手に負えないぐらいになったり、強く願い過ぎてそれ以外を受け入れがたくなってしまうと、すべてがこうあるべきという姿がくっきりと浮かび上がってしまう。すると、それ以外は許容できないシビアな設定となって、あるべき論に陥ってしまうね。その結果、そうでないことやものに対しては冷徹なまでに駄目判定となるわけだ。まぁ、まずまずの出来であればいいか、なんていう余裕が失われてしまう。だから一見理想や目指すべき目標は高く設定することがいいことのように思われているけれども、実はそれがかえって余白を奪い、柔軟性を失ってしまうことがあるから注意したほうがいいね。他人には厳しく、自分には甘くというのがちょうどいい加減なんだけれども、自分にはさらに厳しくする代わりに、他人にはもはや厳格すぎて誤差すら許されないという状況に陥ってしまう。そうするともはやすべてがダメダメとなって、ほんの少しのエラーでさえ大失敗だと嘆くはめになるわけだ。
愛情の裏返し
親が子に願う幸せもそうだね。我が子だからこそ妥協なんて付け入る余地もなくなってしまう。その結果あるべき姿に余白すら残されてはいけない厳格さがそこに生まれるわけだ。もはやあなたの理想とピッタリとマッチしていないことが最悪な状況と化してしまうわけだ。そうではなく、ただただゆるく見守るだけで勝手に子は育つどころか、自らの意思と力によって新しい自らの道を切り開いていく。しかしながら先回りして、細かい指示ばかりとなってしまうのは、実感としては効果がないどころか、かえって逆効果として現れることが多いね。そんな状況を察してあなたの思いを汲み取り、しっかりといい子を再現できる高い能力が生まれながらにして備わっていることを目の当たりにしているだろう。ただ、あなたはそれが通常だと思いこんでいるから、そんな切ない我が子の心遣いを見逃してしまっているね。もはやなんら問題のない状況下においても、もっともっととついつい小言ばかりが増えてしまうのは、もはや自らの欲望に支配されてしまっている状態と言っていいね。
憎しみ
そう、実は愛情と呼ばれるそれらは、憎しみと呼ばれるそれらと裏表の関係にある。だから愛が素敵なことだとか、素晴らしいことだと誤解してしまっている。それらは取扱い注意な劇物であり、ちょっとした誤用でとたんに強力な憎しみに変わってしまう恐ろしいものだね。愛という名のもとに戦いが起こり、略奪が起こり、失うことの連鎖反応を止めることもできなくなってしまう。だから愛なんていうあなたに都合の良い理由づけはかなり慎重にならないと、結果的には破滅や断絶が起こってしまうわけだ。すなわち愛と憎しみの主語は常にあなたであり、それを省略することでなんだか普遍的なイメージを生み出している。けれどもそれはとてつもないパワーでもってすべてを壊滅的にしてしまうおそれがあるわけだ。愛とは姿形は全く似ても似つかないときを時折経験するのは、そういう理由だからだ。もっと極端に言えば、愛なんて一番最初に避けるべきものだと言ってもいい。それは恐ろしく強大なパワーを秘めているのだからね。
