闘争本能

日々

戦争と平和

世界から戦争が完全になくなることを人類は期待している。けれども残念ながらそれが実現した試しがないね。戦争ばかりを繰り返している国が未だにあって、その現実は理想や理念のための殺し合いに過ぎない。もちろん理由なき殺人ではないにせよ、誰かが誰かの命を奪い続けているのは厳然たる事実だね。もちろん、それをやりたくてやっていないというのが建前であっても、そうさせている誰かが確実にいるわけだ。一方でこの国はしばらくそこから遠ざかっており、平和ぼけだとか言われてちょっと馬鹿にされている雰囲気さえあるね。戦争がなくなれば平和という概念も同時に消えるわけで、そういう意味では平和ぼけと呼ばれる裏側には未だに正義という名のもとに命をかけた戦いがどこかにあるからだね。そのどちらもなくなれば、真の意味で争いごとのない世界になるのだけれども、どうやらヒトとしての本能として備わっているものだから、ヒトが絶滅するまでそんな世界は訪れないようだ。

競争社会

国と国という集団でドンパチやらないとしても、同級生や同僚や仲間うちで誰が一番かどうかという争い事は、形を変えてずっと消えてなくなることはなかった。スポーツなんていうのは、その本質としては代理戦争というか疑似戦闘そのものであり、やっぱり競い合って勝ち負けを争うことをうまく昇華した娯楽として未だに残っている。さらに言えば、それがまるで美徳であり、崇高なものであるとして、今後も消えてなくなることはないだろう。実際にそれに参加しない観客がいて、その戦いに同じように酔いしれている様子を見ると、もはや戦いなくして人生そこにあらず、の様相を呈している。もちろん生きるということはサバイバルであり、すべてに慈悲を抱いてしまえば命をいただくこともできず、ただただすぐに死を意味するのだから仕方がないといえばそうだろう。もちろん命がけでやったとしても、命までも犠牲にしてはいないという点ではゲームとしては十分に成立しているのだからね。

勝敗

そこで何が勝ちで、何が負け、なのかをルールによってあらかじめ決めていることが重要だね。絶滅したら勝ちというゲームは使い勝手が最悪だ。というのも、本当にそうなれば次に戦う相手がいなくなるわけだし、必然的にそれは内部へと向かわざるを得ないからだ。スポーツのいい部分はその規定がしっかりとあらかじめ決まっているということであり、今や戦争においても国際的にルールが制定されている。もちろんそれを守るかどうかはプレイヤーの判断次第であり、その審判がいるとしても、そのジャッジに従うかどうかも恣意的に決められる。その圧力とはいわゆる同調圧力しかなくて、世界から孤立するぐらいの覚悟があれば、我が家の家訓に従うかのごとく無視する判断も不可能ではない。もちろん現代社会はグローバル化しており、一国だけで孤立して生き残ることは難しいけれども、だからといってできないわけでもないようだ。その部分ではやはりヒトは群れをなし、一匹狼というよりもむしろ徒党を組む生き残り戦略をとる生物なんだろう。