自由と制約

日々

社会

社会においては、いろんなルールや規律がある。それはあなたが気に入るものばかりではなく、むしろ息苦しいものがほとんどだったりするね。本当はやりたいことがあっても、それを制限するような要素が探せばすぐにたくさん見つかってしまうからだ。でもそれはあなた自身がそうしているとすれば、そんな馬鹿らしいことはないだろう。いやいや、それはあなたが決めたものではなく、いわば誰かからそれはダメ、あれはダメと言うものだからそうであって、あなたはそうは思っていないものばかりだと反論するかもしれない。でも本当にそうだろうか。それを言い訳にしてホッとしているあなたが裏側に潜んでいないかどうかをチェックしたほうがいいね。そんなことしたら上司に叱られるよ、とか、親に顔向けができないよとか、仲間はずれにされてしまうよ、とかすぐに気がつくことばかりだ。でもそれらの根本は、嫌われたくないというあなたの本音であり、どちらかといえば好かれていたいし、いい顔をしていたいと思うあなたの個人的な皮算用によって生まれているものではないかな。

自由

自由とはなにか。その問いに先人たちが、特に哲学的社会的思想家たちが解きほぐそうと挑んできた歴史がある。強制されたり強要されたりしないで、奔放に好きなことをする行為だと思っているそれは、実は裏返して見れば、その制約がなければ存在しないことにもなるわけだ。自由であり、平等であるという個人的なそれと、社会的なそれはまるで性質が異なっている。例えばあなたが今夜何を食べようととも、誰かに迷惑をかけるものではなければ選択に関して制限はない。しかし高級レストランで食事をしたいと思ったとしても、その費用を負担するだけの金銭的な余裕がないと実質的には制限されていると感じるだろう。たまの贅沢ぐらいはなんとか叶うとしても、それを毎日となると今の働き方や仕事のやり方を変えないといけないからだ。そこで不自由だと思うわけだけれども、そもそもなぜそんな高価な食事をしてみたいと思ったのかというきっかけを探すと、実は何の根拠もない社会のあり方にあなたも巻き込まれているだけのことだね。

反発

すべてはそうやって、あなたが思う社会の制度に反発することによって、あなたが思い違いをしている自由が生まれていることに気づくだろう。もっと豊かな暮らしがしたいとか、もっとやりたいことをやりたいと思うには、それをするにはあなたに手の届かない状況がすべて揃っている必要がある。あなたの思いつきのあらゆる願望が叶うことが自由だと勘違いしているだけのことでしかない。自由は反発や手の届かないちょうどいい距離にないと生まれないということでもある。もっと言えば、そもそも自由だからこそ、不自由を生み出すことができるとも言えるわけだ。ここまで考えてみると、あなたは不幸だとか不自由さを嘆くことができたり、少なくとも感じたりできるのは、そうではない条件がすべて揃っているからこそのものだ。そうだとすれば、はてさてあなたは本当に不幸で不自由なのだろうか。すでにすべてが揃っていることに対する疑問にあなたは答えることができるだろうか。