初志貫徹
ぶれないという美徳
初志貫徹とか首尾一貫とか、そういう何があってもぶれずに貫くということの価値が最も高いと感じている人が多いね。そういうわたしもその傾向がいつの間にか身についていることに気がついてるよ。日和見主義でその都度コロコロ意見を変えたり、強いものや長いものに巻かれるような人はリーダーには向いていないとか、悪く言えば裏切り者だとか言ったりもする。ずっと時間が止まって、状況もそれほど大きく変化しない状態であるならばそうかもしれないね。でも、例えば誰もわからないことが起きた時に最初に仮説を立てて検証していく中で、これじゃとてもじゃないが対応できないと分かった時に、そのぶれない精神、何があってもやり遂げるという強すぎる意思が、時に大きな犠牲を払うことになったりもするね。何のための初志貫徹、首尾一貫だったっけ?
方針と展望
誰もどうなるかわからない問題に対処するとき、こうじゃないかなという仮説の段階で、すでいい悪いという批評大会が始まる。いくつかの方針と展望の中で、正解を探している。だれにもわからないということは、実はどれもこれも「はずれ」であることもあり得るのにね。単なるクイズ番組だったら正解者ゼロであれば、ノーカウントでリセットされるのだろうけれど、現実社会をどうする?という時には大きく方向転換の舵を切らなければ被害が甚大になっていずれ滅びてしまう恐れがある。方針転換やリセットをここで大きく邪魔をするのが、初志貫徹や首尾一貫を美徳とする価値観だよ。まずいなぁと薄々気がついたとしても、今さら多くの支持を受けたリーダーとして出した仮説を「実は間違ってました、だからまたゼロから構築しなおしましょう」なんて言い出すことに躊躇してしまうし、それを支持するフォロワーも同じくちょっと「考えなおしましょうか」となぜか言い出せない。これの度が過ぎると、おかしなことに「私が見込んだリーダーなんだから満身創痍になったとしてもぶれずについていきます、死なばもろともです」みたいな精神論になってしまうね。いやいや、初めの目的は一体何だったの?って誰かが言ったところで、もうそんなことなんてどうでもよくなってしまう。「一丸となって頑張る」という言葉が語られるときは危ない状態に陥っているのかもよ。
虚構に生きる
そうして現実の結果には目をつぶったり、あるいは都合が悪いことは偽装したりすることで、初志貫徹を達成することにあっけなくすり替わってしまう。貫き通す覚悟と気迫さえあれば、どんな困難にも必ず打ち勝つと信じることが一番大切になる。どうしてそうなるのだろう。状況は刻々と変化し続けているのに、それを隠したり見えないようにする。もしくは強い意志を持ってわざと見ない。ちょっとこのままで本当に大丈夫かな?なんて誰かが弱音を吐けば、皆でバッシングする。統制が崩れるとか組織の秩序が崩壊するとか、そういう迷いが最も状況を悪化させると本気で信じている。ここまでくればもう皆が助かり、幸せな暮らしを送るため、という目的なんてもはや消えてなくなっているね。多少の犠牲があったほうが、解決のために一歩前進している感じがして、栄誉の犠牲なんだから良いとまで感じてしまうし、そうやって犠牲になった仲間を褒めたたえてしまう。ちょっと考えれば犠牲を出さないための初志貫徹、首尾一貫だったはずなのにね。
義理、人情、恩
気がつけば、そういう集団意識とその中の美徳を無意識のうちに植えつけられているんだよね。そこに心が打ち震えるようにあれこれと教え込まれている。個人個人は得手勝手に生きることを望んでいるのにも関わらず、集団としての美徳はどこかにそういうことが望ましいと感じているなら、ちょっと気をつけた方がいいね。もちろんあなたの生き様をどう選ぶかは何を選んでもいいんだけど、他人を巻き込んでしまうことに関してはもっと慎重になった方が、結果的に多くの犠牲が少なくてすむね。自分がそうしたいから、そうするのは何ら制限されない。けれど、だからあなたもそうしなさいと思ったときがチェックポイントだよ。なんとか自警団とかなんとかポリスとかが世間をにぎわしている。身近な人との義理と人情、恩を大切にしたいのなら、わたし以外をすべて愛する視点を持ち続けることが大事だと思うよ。そうでないと単なるハラスメントに成り下がってしまうからね。だからまずはそういうときの顔を見てみて。しかめっ面でとっても怖い顔しているのなら、まずは愛する視点のほほえみに変えてみようよ。