あれこれできる

日々

回り道

いつもあなたは回り道ばかりで、うんざりしている。求める結果とそれへの過程の大変さが大きすぎて、なかなか思った通りにことが進まないからだ。そんなにいろんなことを一度にやらないと到底たどり着けないのか、と落胆と絶望を感じつつも、やるしかない、という思いで少しずつ歩みを進めている。そうしているうちに、あれもこれもやるべきことがたくさん見つかって、もうどこから手を付けて良いのかすらもわからなくなってしまう。でもね、それでいいんだよ。あれこれと気がついたとしても、あなたが心向くままにそれらの一部をどんどんやれることはやっていくだけのことだ。それでいい、というかそれがベストなんだ。だから心配ばかりして歩を止めるよりも、ま、そういうことはまた後でやれるならやってみようと放っておけばいい。あるいは、そっちのほうが先だとおもうならば、さっと踵を返してそれに向かえば良い。なんだか虻蜂取らずだな、と笑いながら今やりたいことをやりたいだけやっていくしかないという心境で進めていくことができるならば、それで実はすでに大成功なんだよ。

無駄

よく言われるのは、そんなことを学んだところで生きるうえでなんの役に立つんだ、という観点から実学的な方がいいというか、リベラルアーツを軽視してしまう傾向にある。歴史や哲学や古文なんかは、テストの点数のための存在価値しかないと誤解されてしまうのも、そんな結果主義の影響でもある。学ぶことの本来の意味を忘れて、点取りゲームのためにしか価値がないと断定してしまうと、ならそのための一番効率が良い方法はなにか、という議論ばかりに終始してしまうわけだ。しかしながら学問のルーツは神学であり哲学であるわけだ。そういうシンプルな歴史的背景すら捨象してしまっている。生きるとはなにか、より良くとはどういうことなのか、またどうせ終わる人生において、ただ投げやりに過ごすのではなく、なにを善とし、何を幸福とするのか、なんていう答えのない問いを追求し続けるための学問という原点を忘れてしまっている。学びとは態度であり、不確実性が高まる状況においていかに楽しく生き抜くのかということを探求し続ける姿勢でもある。だからそれをやってどうなる、なんていう問いはナンセンスなんだよ。

正解

もはや正解は無力な時代へとシフトしているのも、生きるために最低限の安全、安心、健康、環境の問題がとりも直さずクローズアップされることはないからだ。十分に人生を生き抜くための必要条件がおおよそクリアされたとも言える。もちろん、まだそうではない地域も世界の中に残っているのも厳然たる事実だ。けれども、少なくともこうしていられる世界においてはほぼほぼ到達していると言って良いだろう。すなわち、無駄だとか無駄でないとか、より効率性を高めるような議論ができていることがその実現の証でもあるし、食うや食わずやの問題で日が暮れる状況ではなくなったということでもある。それが文化や社会を醸成し、哲学が必要となった段階であるとも言い換えることができる。より便利になった社会においては、幸せはますます複雑怪奇になっていくのも必然だ。生き残るだけで善であり幸せだった原初から、それがほぼほぼできるようになったからこそ新たな苦悩が生まれたわけだからね。だから好きなことをやっているという状況が実はその答えであり、幸せそのものだと言えるのだよ。