幻想時代
豊かさの正体
結局のところ現代は豊かさすぎるから不幸になっていると結論づけていいだろう。ずっと生きていくことが前提となっていて、それ以外の選択肢はあえて選ぶほどの価値を失ってしまっているからだ。明日はもうどうなるかわからないという状況であれば、それこそ今この瞬間の価値がとてつもなく高くなる。ところが明日もそれなりにやり過ごすことができるだろう、なんていう前例主義によってどうせなんてことのない日がまた過ぎるだけだと思ってしまうわけだ。だから平凡な日が奇跡とは思えず、どちらかというと大きな事件を心待ちにしているのもその反動だね。人生の転機とかピンチはチャンスとか、転換点だとか、そんなものを有難がっている。もちろん文字通り有り難いわけだけれども、実はなんてことのない日々を平穏に過ごせていることの方が当たり前ではなかったはずだね。他の動物を観察すれば、明日のことなんて視野はなく、今ここの瞬間を精一杯楽しんで生きている。なにもしないでもなにもしないでいることに有り難さを感じているかのようにね。ところがあなたはそれがどちらかといえばパッとしない人生だと嘆き悲しんでいるね。
価値の創造
価値とは希少性の程度だと経済学では論じたりする。古典的なそれでは、誰かが手を加えた分が価値だと言っていた頃に比べてみれば、今や大量生産ができる時代においてはその有り難さを失ってしまったからだ。どんな製品や食料にしても全く手をかけずに出来上がるものはないということから導き出されたものでしかなく、価値は面倒ななにかへの対価として定義づけられた。そしてその代替手段としての貨幣が流通することになり、今やそれすらもデジタルデータでしかなく、ものとしての貨幣の役割は失いつつあるね。貨幣そのものには価値がない。けれどもそれを欲しがっているひとがいて、一定の量しか手にできないとすればその希少性によって皆が求めるそれへと変身しているだけのものだ。ましてや国際社会において相対的にこの国の通貨の価値を失えば、あっという間にその交換価値を失ってしまう時代だ。けれども人々の意識はすぐさまアップデートできるわけもなく、ただひたすらその量ばかり追いかけ続けているままだね。そういう意味では価値があるとかないとかは、もはや幻想でしかないとも言えるわけだ。
貨幣崇拝
現代資本主義において、貨幣崇拝と呼べる一種の幻想を信じて突き進んでいる。そしてそれを奪い合うことによってより豊かな生活を多くの人が享受できるという意味では唯一無二のシステムだと信じられているね。もっと他にやり方があるだろうといつも議論が湧き起こるけれども、今以上の優れた利点を見出すことがまだできないままだ。あるいは小規模でそういう実験的な村を作ることができるかもしれないけれども、多くの人はそこへ入村しようとは考えないね。すでに便利さや豊かさ、さらには明日死ぬかもしれないという恐怖を感じている人が少ないからだね。そしてそれが行き過ぎるともはや生きる価値というよくわからないアナロジーが生まれ、今この瞬間の奇跡を全く無価値であると思う人が出てくるわけだ。特に自らの命までも自由意志においてコントロールできるなんていう状況は、自然社会においてはありえないね。それほど明日もあさっても来月も来年も変わらず生きているというなんの確証もない不確実性を楽々クリアしている生物でしかそんな概念を共有することはできないわけだ。さて、あなたにとっての幸せとは何なんでしょうか。
