あるようでない
思い込み
あなたはすべて思い込みでできている。そう言うとぎょっとするかもしれない。けれどもまさにあなたはあなただと思いこんでいるからそこに存在できるわけだ。いつもよく言われるように、あなたはどこにもいないし、どこにでもいるという感じになるね。だからあなたは世界のすべてであり、世界があるからそこからあなたらしさを切り出すことができる。卵が先か鶏が先か、みたいな議論になって堂々巡りになってしまうのは言葉は実世界を表せない限界をもともと有しているからだね。もう、言葉にはならない世界において、あなたはすべてこれが現実だとか、これが常識だとか、これが正解だと思い込むことでしか、あなたを浮かび上がらせることはできない。これが思考の限界であり、言葉という記号の限界とも言えるね。一方で言葉はとてもすぐれたツールで唯一無二なのは、あらゆる複雑な要件をシンプルに記号化できるという点だね。だからこそ使い勝手が良いわけだし、すべてではないにせよその不自由さを上手に活かすことで、ある一定の情報を伝えることができるわけだ。
感じること
文字という記号を紡ぐことで、その表層的な意味だけではなく、その順序や特徴によってその向こう側の言葉にならないことまで含めることができる。確かに言葉にならないことは、受け取り側、すなわち読者に委ねられるわけであって、確定的な情報が含まれているわけではない。いろんな表現技法によって、読み手側に違和感を生じさせることで感覚的ななにかを伝えることも時としてはできるわけだ。しかしそれは、暗号めいた謎解きゲームみたく、あなたがコントロールしようとしたそれとは同じとは限らない。そこでどう読むべきか、なんていう議論が沸き起こったりするわけだけれども、それも正解があるようで究極のところどうでもいいね。表層的な記号の羅列である文章の意味は制約されているわけで、その額面通りに理解したとしても、何もわからないのがほとんどであったりする。会話も文字に起こせば結局のところ何も言ってないことがほとんどだったりする。文字という記号化は自由なようで、実はとても不自由であるということがそこかしこで直面することになる一方で、なんとなくそれで十分だったりもするわけだね。
自由
自由とは不自由の中にあるとはよく言われることだけれども、自由過ぎるとうまくいかないのはそういうことだね。あなたはそれをそう捉えているだけであって、実はとても制約された世界の中でしか物事はスムーズに流れないことが多い。好きな趣味であっても、仕事であっても、人間関係であってもそうだね。同じ場所にいたり、同じことをしていたり、同じ目標を持っていたりすることは、それ自体が不自然だ。そしてその中でさらに様々な制限がそこにある。それを取っ払おうとしてもがいているわけだけれども、実はそれがあるからこその今の状態であるわけだ。そしてさらに言えば実のところそのあると思いこんでいる制限は幻想でしかない。なぜならときにそれを取っ払おうとしたらできたりした経験がすでにあるはずだね。そう、すべての枠組みみたいなものや不自由な世界や社会というのは、実際にあるわけではなくあなたの中にしかない。だからすべてはあなた次第であるし、そうだからといってすべてを解き放ったとしてもうまくいかないのはそういうことだからだ。
