自由視点

日々

流れ

大いなる自然の世界において、あなたはぽつんとその流れから外れた場所に存在する。なぜなら存在というのは宿命的に全体から際立つなにかであるからだね。水の流れはそこに水がないから見えるわけであり、山々がそびえ立つ麓には平面な大地がある。すべては対照的に際立っているからこその存在である。あなたは他の誰かよりも少しずつ違うからあなたがそこに認識できるわけだし、他の誰かと同じような状態であればその他大勢という括りでしか見られることはない。だから、あなたはほんの少しであっても調和という殻をつきやぶったが故に、あなたがそこにいられるわけだ。そんなあなたであっても、視座を変えてもっとマクロで見れば大いなる地球という星においては、命を宿す生物という自然の潮流の中の一部となる。すなわち、あなたらしさや日々悩み続けているちっぽけな存在であると同時に、俯瞰してみれば多くの生物の一部でしかないという二重の側面を持っている。そこで幸せだとか不幸せだとか、良いとか悪いとかという振り回されているそれらは、結局のところそれがあるのかないのかという真実は大局的に見ると大いなる流れの一部とも言えるね。

観察者

だから何をどう見るのか、なにをどう認識するのかは、あなたという観測者の位置に依存するわけだ。ざっくりと見るのか、詳細を分析するのかによって全く見え方や見解が違うことになる。そしてそれらはどちらも間違いではない。さてそこで選択が迫られるわけだけれども、どちらも真実であるのならば見たいように見れば良いという話になるわけだ。日々夢を見ているあなたにとっては、その夢が叶うことが大局的な観点だと思っている。けれども、そのさらに向こう側の視座からすると、まだまだミクロ的なのかもしれない。あなたの実際の生活においては、そんなに遠く離れた視座では細かな日々の苦悩なんて解決しないと反論したくなる一方で、だからどうなんだ、と言われると答えに窮するわけだね。あまりにも現実離れした視点で何かを語ったとしても、実際の生活は何一つ変わらないという現象が現に起こっている。ならそれをどうにか解決しようとするミクロな視点であれこれやってみても、何一つうまく行かないどころか、ますます状況が悪化しているように感じているわけだ。ならどっちから見ると心地よいのかという一点で好きにしたらいいかもしれないね。

心地よさ

問題ごとをどうにかしようとしている時点で、大いなる潮流からは離れた状態である。でもそれで充実した毎日が過ごせて心地よいのならばそれが一番だね。一方で日常の瑣末事ばかりで疲弊して、今を楽しめない日々が続いているのならばあなたはその場所から離れて、少し視点を移動すればいい。要するにあなたは視点を自由に移動することができる能力が備わっていると言っていいだろう。そしてそのきっかけは、心地よさで決めるだけで十分なんだ。居心地が悪い場所からはとっとと移動することができる能力をもともと持っていることすら忘れてしまいがちだけれども、その能力をフルに発揮する練習を人は悟りとか覚醒とか達観とかそんな言葉で表しているだけのことだね。あなたの思考はその元データが卑近なものばかりで覆い尽くされがちだから、どうしても広範囲な情報が欠落してしまいがちになる。だからこそ先人の書物をたまには紐解いてみることが、あなたの錆びついた能力を磨くきっかけになるわけだ。科学やエビデンスとかそういうものばかりに振り回される日常から少し離れて、哲学や歴史、文化や社会に関するいわゆるリベラルアーツが役立つのはそういうことなんだよ。