愛すべきムダ

日々

ムダ

ムダがあるから価値も同時に存在する。どちらか片方では成り立たない概念であることは知っているね。だから効率化ばかり追いかけても結局のところそれほど効率的にはならない。逆も然りで、ムダが皆無ならば、効率化は成り立たないわけだ。だからこそムダを愛することが必須となるわけだ。なにかおかしなことを言っているように思えるかもしれないけれども、効率的な人生はムダを一切排除することができないという事実がそこにあるわけだね。ムダがあるから、洗練された効率化が見えてくるわけであって、ムダを一切排除してしまうと、無機質な作業だけがそこに残ってしまう。それは幸せとか目指すべき姿とは程遠く、味も素っ気もない毎日が繰り広げられるだけとなる。多くの場合はそれは耐え難い苦痛となり、やっぱり幸せにはなれないわけだ。最短で結果を求めるという行為は、不幸せまっしぐらの手段となるのはそのせいだね。なにかそこに遊び心というか、それ今必要なのか、という余白がないと味も素っ気もない日々を強制的に過ごすはめになる。

不要

必要か、不必要かの議論も同じことが言える。必要なものだけに特化しようとすると、不要なものは排除されてしまう。すると必要だと思っていたそれらもまた存在価値を大きく毀損することになってしまう。それが究極的には必要だったそれらもすべて宙ぶらりんとなり、実はなにも必要なものなんて存在しない世界となってしまう。要するに不必要なことがあってくれるがゆえに、必要なものを抽出できたわけだ。だから不要なことも実は光と影と同じ構造であって、必要なことと同じぐらいに大切なものだと知るわけだ。そんな議論ができること自体が幸せであって、それすら選択できない状況となってしまうと本末転倒となってしまうね。何がいるのか、いらないのかを選別できる楽しみは、実はそれ自体が幸せであって、それすらも不要となってしまうとあなたに残された余白は限りなくゼロになってしまうからだ。そしてもはや選択肢すらない人生をなぞることだけで無味乾燥な日々をこなすような人生となる。それでいいと思ってみても、そこには楽しみとか面白みという不要なものが一切排除された暮らししかないね。

幸せの本質

そこであなたはハッと気づくわけだ。どうやら幸せの本質はムダそのものであるということだ。それは説明しようにも効率的、合理的ななにかではなく、あなたの人生において生き続けるという行為には全く必要のない、いわばムダそのものであるということにね。幸せなんてものは、生命維持にとっては全く不必要なものだからね。効率的に生きるということに特化すればするほど、何が楽しいとか何が悲しいとかそういうものはすべてが不必要であって、単に生命活動を続けて維持するだけであれば、最小限の活動で十分だからだ。余興も余白も感情すら邪魔ものである。だから単に死ぬまで生きるという行為においてはあなたの願うなにかは全くもって不要なことばかりだ。誰かに好かれたいとか、誰かといっしょに楽しみを感じたいとか、大金持ちになりたいとか、有名になりたいとか、そんなものはいずれ終える人生においては全くの無意味なことばかりだね。ということは幸せを感じるという無意味な行為そのものを中心にして生きながらえるとすれば、あなたがやっていることは真逆だね。だからムダを愛して、ことごとく思ったとおりにいかない遠回りの人生こそが幸せな人生そのものだと気づくだろう。