向こう岸
挨拶
挨拶とは、あなたの心の内と外の架け橋だ。この原則はそれだけでいいね。それ以上のなにか意味を持たせてしまうと途端にぎこちなくなるのはそのせいだ。商業上のいわゆる笑顔で接客というビジネススマイルが常識となっている現代は、人類の歴史に対比すればつい最近のことでしかない。それまでは異界の人と出会った時、その人がどんなふうな人なのか、なにを思っているのかを探るためのいわば本能的な行動でしかなった。何かを差し出したり、生贄と呼ばれる習慣であった。それが時代とともに変化して今の形となっている。すなわち出会いのきっかけであり、眼の前の分断に対する一つの対処法なんだ。向こう岸に渡ろうとしたら、そこに見知らぬ人がいた。そしてその人が手招きしてあなたがそこから川を渡ってくることを見守っている。そのときの通過儀礼としての一種の合図とも言えるわけだ。そしてそれを今は幼児教育から徹底的に教え込まれ、いわば強制的にそれを強いられてしまう。それに馴染めない子たちは、それだけで向こう岸に渡ることすら苦痛となってしまっている。
効率
一方で、そんな社会的な儀礼を廃止して、実際のコミュニケーションの内容を重視する価値観へと変遷している。いわゆるムリ・ムダ・ムラを排除して効率化が求められてきた。例えばメールで業務上の連絡をするのにいちいちお疲れさまです、なんていう言葉は定型文として使っているだけで、お互いにとってはムダでしかない。本当にそう思うのならばもっと違う文章がそこに生まれるはずだからだ。お忙しい中すいません、とかも実際にそうであるかどうかは全く関心がなく、それを記号としてやりとりしているだけで、本当にコミットするコストを削減している状態だね。しかしながら礼儀作法が実質のなにかよりも大切だという固定観念があると、なんて失礼な人だと中身以前に判断してしまう。いわば内容よりも形式にこだわるがあまりに、よくよく見返してみても特になんてことのない報告だったりするわけだ。もっと言えばようするにうまくいきました、とか、失敗してごめんなさい、という一言をもったいぶって長文にすることが、一つのエクスキューズとなっているわけだ。
リスペクト
形式だけの挨拶や、ビジネス文書における定型句は、枕詞としていまだに機能している。そしてそれらはビジネスマナーとして、しっかりと定着して未だにそれに反する行為はタブーだと多くの人は思っている。一方でその本質からそれらをムダとして廃止しようとする組織では、限定条件下においてその利用を推進している。それはすなわち内か外かで使い分けるということだね。それらのルールは不思議なことに一旦決めてしまうと、それ自体が独り歩きすることになって、やや暴走気味になる。それぐらい習慣にはパワーがあるわけだ。なんでそうしているのか、と素朴に質問されたところで、今までがそうだったから、という答えしか見つからない。そのほうが良いことだと思いこんでいるだけだけれども、一方で同じように思い込んでいる人からすれば心地よい慣習となる。そしてそれを打ち破るような人を自動的にスクリーニングして、実は異分子というか異界の人を排除する機能がそこに生まれるわけだ。それぐらいあなたの常識というものは根拠なく、しかしながらかなり強固なものなんだ。さて、向こう岸に知らない人が手招きして待っている。あなたはその川を渡るのか、それとも渡らないでいるだろうか。
