科学とスピリチュアル

日々

すれ違い

人生はほとんどすれ違いだと言ってもいいだろう。あなたが思っていることと、誰かが思っていることはいつも違うわけだ。ときどき同じだと感じることもあるけれども、細かいところまで見てみるとやっぱりちょっとずれていることがほとんどだね。あなたの意図と誰かの意図がまったく同じになることなどほとんど無い。それにも関わらずわかりあえていると勘違いしている恋人や友人があなたには確固たる地位で存在しているからおかしな話だとも言える。でもその勘違いがあなたに一瞬の幸せをもたらすのも事実だ。だから、人生はそんなものだと悟るとすれば、大いなる勘違いを続けていったほうが、幸せな人生だと言えることになる。事実と幻想はそうやって乖離しているけれども、だからこその幸せであり、だからこその愛しさでもある。愛の正体とはまさに勘違いでほとんどができているわけだ。そしてそれをずっと気が付かないままでできればいたほうが、すべての人にとってベストソリューションだとも言えてしまうわけだね。

恋愛は勘違い

その最たるものが、恋愛感情だね。お互いが事実とは異なる人物像を膨らませて、互いに相思相愛の仲だと信じることで大いなる幸せの日々がやってくるわけだ。身も蓋もない言い方をすれば、色恋沙汰はすべて勘違いであると言っても良いね。やがてそれが化けの皮が剥がれて、失望してしまうことも実はセットになっている。ところがずっと幸せな人をよく観察してみると、そんな真実を全く顧みないような人がそうなっている。すなわち、なんでも本当のことを知ればいいというわけではないということだね。本当のことなんてもしかしたら、人生においては無用の長物なのかもしれない。お互いが相思相愛だと思いこんでいるだけで、世界は薔薇色であるのならばそれ以外のちょっとした気の迷いは藪蛇だろう。逆に言えば牧歌的に信じて疑わない人のほうが、幸せになれるわけであって、疑い深い人ほど傷つきやいとも言える。そもそも疑いとは真理の追求という行為である一方で、夢や希望を叩き壊す行為でもあると言って良いだろう。

自信と盲信

だからこそ、自分そのものを信じ続ける力こそが幸せになる力だとも言えるね。よく言われる自己肯定感だとか、勘違い力とか、とにかくあなたが直感的に思ったことの根拠なんてそもそも必要もないことなんだ。けれども科学信仰の時代においては、その証拠を探す旅に出ることになってしまう。エビデンスとか格好つけて言ったりするけれども、それがわかったとしてもだからどうなんだという落ちになる。証拠や確証なんていうものは人生においては全く必要のないことだ。科学においてはそれが再現可能かどうかというチェックが厳密に行われることで、その繰り返し同じ結果になる度合いによって評価されることになるわけだけれども、それをそのままあなたの人生に当てはめるのは、おそらくやめたほうが良いだろう。なぜならあなたの人生のすべてのシーンにおいて再現可能性なんていうものはそもそも必要がないし、それが再現されたとしてもあなたの感じ方は全く以前のそれとは違うだろう。あなたはかけがえのない今を生き続けているわけだから、実は科学的なエビデンスとは全く違う世界なんだからね。