何があっても今を生きる
試練
この世に生きている目的は一体なんだろう。そうやってふと疑問に思ったとき、あなたはあなたの状況を確認することになる。そんなこと考えもせずに毎日忙しいわけだけれども、ふと時間ができたときに、そうやってふと魔が差すわけだ。ところがそんなことはいくら考えたところでわかることではないね。だから人によっては全くの時間の無駄だと指摘されるだろう。生きるのに目的なんてそもそもないのだから、それは一理あるわけだ。ただ気がついたらそこにいて、ただ生きている。さらに言えば生きていようとする意思なんていうのもなく、ただただ生かされているという状態だろう。あなたの意思や思考には全く関係なく、今がある。そして今を感じられることが生きている証だということでしかない。そしていずれはこれも終わるのだろうな、とあなたが見てきた他者の死でそれを類推しているけれども、そもそも生まれた時も死ぬときもあなたはそれを知ることはできないわけだ。
淀み
そうしてなんとなく生きている状態だと思っているわけだ。少なくとも今を感じることができるし、その無駄とやらもやろうと思えばいくらだってできるからね。ということは、人生に合理的ななにかを求めるよりも、不合理で無駄なことがいつでもできるというところが、生きることの本質であるとも言えるね。無駄なことをやらないように人生という時間を丁寧に使おうとする活動は、一方で無駄なことを最大限やるために、考えてもわからないようなことにはとらわれないということでもある。そもそも何が無駄で何がそうでないかなんて、どこにもないはずなのに、あなたは一日ぼーっと過ごすことが無駄だと思っているし、かといって仕事しているときが自己実現が可能な有益な時間だと思っている。ところがそれもこれもすべては、生きるという本質からは関係ないことばかりだ。すべてはそのときどきの状況によってそうなっているだけのことだからだ。
遊びと仕事
だからあなたは仕事は苦痛で遊びは楽しいという区別をするようになる。辛いことは生きるために仕方がなくやることで、楽しいことはあなたの生きているという喜びの体現のためにやる。だから辛い時間はできるだけ早く終わらせたいし、楽しい時間はできるだけ遅く終わらせたくなる。もっと言えばずっと遊んで生きることができれば、それを極楽と思っているだろう。しかしながら、実際毎日が日曜日な生活をしてみたらわかるように、そんな簡単に極楽で幸せいっぱいにはならないことも知っている。なら生きる上において幸せや苦痛は一体何なんだろうと感じるわけだ。それらは生きる時間の中にしかないわけだし、できれば楽しい時間をできるだけ多く過ごしたいと思っているだろう。そしてそれが明確に分かれる境界線もぼんやりとしている。あなたが生きているという実感はいずれの状況においても同じであり、辛くとも楽しくとも今生きるということは同じだ。いろんなことを感じられることそのものが生きている証拠だとすれば、すべてはかけがえのないあなたそのものだと言ってもいいね。
