知識量比べ
態度
本来の学びとは、なにかトラブルが起こったときに、それに対してどうするかという態度を知ることだ。したがってその際においてどういう選択肢を選ぶことができるかということが、総合力であり、それに対応できるか否かは、もちろんそれに付随する様々な知見を持ち合わせているかどうかということにも依存するね。だからまずはその場合はどうすればいいのか知っているということを生み出すための知識が必要だとされているわけだ。だからまずはそれらの知識をまずは学び、知り、使えるぐらいに蓄積することを重視されてきた。その礎としての公教育があり、一見すぐに何かの役に立つわけでもない歴史や文学や哲学を学ぶことで、そのデータベースとなる土台を自ら持てるかどうかという指標が優秀さを測るものさしとなった。それらは筆記なり口述なりのテストが容易だということで、その知識量を増やすことに躍起になってきた背景があるわけだ。
物知り博士
今でもこの国の最高学府でとびきり優秀な人がクイズ王なんていう呼び名で世間を賑わせているのも、優秀さが物知り博士と同義であるということを表している。しかしそれがネットワーク社会においては、その検索する方法がわかっているのならば暗記する必要はなくなった。テレビでクイズ番組を見ていても、手元のスマホがあればすぐに正解を検索できるスキルさえあれば、あなたも同じようにクイズ王になれるだろう。ところがクイズやテストはあえてそういった便利ツールを使用できないという制限で、その暗記力のすごさを強調しているわけだ。そのために膨大な知識をまるごと暗記するために費やしたコストは、人生の大部分を占めている。それ以外の経験はそういう意味では犠牲にせざるを得ない過去があったのも事実だろう。だからこそあなたが人生において何に対して時間を費やすかということがますます鍵となる時代だとも言えるね。
不確実性
知識量を問うゲームはそれ自体は何ら問題もない。けれどもそれらはやはり幼少期からの人生の過ごし方で決まるようだ。幼い頃は学ぶ時代であり、様々な興味関心が最大になる瞬間でもある。いろんなことに興味を示し、本能的に生きるための経験をほとんどそこで得ようと貪欲な時期でもあるからね。そのワクワクドキドキの黄金時代に、テキストと塾とドリルで数式やノウハウを覚えることに全振りしてしまうと、不確実な自然と戯れる時間が乏しくなる傾向にあるね。もちろんそれがすべて悪だとか避けるべきだとかという短絡的な結論には至らない。けれども、あなたの思いと他の人の思いは一致せず、それゆえに上手に交渉することが必要なスキルだったり、すぐさま将来のキャリア形成に役立つことがない無駄な遊びに夢中になったり、そこでトラブルになったりする体験を失った先には、本来何があっても生き抜く力は身につくのだろうか。知識量はもはや必要のない時代だというのにね。
