あなたと別人
白と黒
正解だの不正解だの、良いだの悪いだの、そんな日々が繰り返されているわけだけれども、それらのような二元論的な判断はほとんどが勘違いだと思っていいだろう。素敵な日々を過ごしたいと思うのならば、そうではない日を受け入れないと素敵な日々は訪れないだろうし、凡庸な日々をずっと安定して生きていきたいと思えば、とびきり素敵な日々でも浮かれてはいけなくなるね。すなわちあえて正解とするのならば、そのどちらでもない中庸な日々となるわけだけれども、それはそれであのときあの波にさえ乗ることができれば、もっと生活水準が上がったのではないかとか、どん底の不運な日々にできるだけの対策に気がついていれば、今はもっと幸せな暮らしになったのではないかと悔み嘆くことは避けられないわけね。だから、浮き沈みをあえて楽しむという方針をとってもいいし、穏やかな日々を維持するために鈍感力を磨いてもいい。どちらにせよ、あなたが二元論的な判断を避けるという意味では同じことだからだ。
無常
常に状況は変化しているし、これからもそれが止まることはない。だから概念的にこっちだとかあっちだとか決めたところで、その時々の変化に応じて柔軟に対応すればいいだけの話だ。その適応の度合いをどれくらいにするか、という点では先の大きく分けて二つがある。ドラマティックにダイナミックにその時時の状況にすっぽりハマって適応するのか、そんな流行り廃りなど目もくれずに、自分の世界でコンパクトに生きていくのか、それすらもどっちだと決める必要はないということだね。そもそもこうだと決めつけることは、自然の中で生活する生物においては命取りとなるケースがほとんどだね。それは生命活動そのものを注意深く観察すると気がつくだろうけれども、命とはダイナミクスによって支えられているわけだからだ。動的均衡状態を維持することが生きることであり、そしてそれはやがてエントロピーの法則によって破壊されていく運命なのだからね。
矛盾
だから昨日のあなたと今日のあなたは別人だと言っても良い。社会生活においては個々人を特定できないとうまく回らない仕組みがあるがゆえに、その秩序を保つためにはそうであってはやりずらいわけだ。けれども契約書を反故するという意味でなければ全くそうであっても問題はない。なぜならそれを言っている相手ですら自然科学的には別人なんだからね。あのときはそう思っていたけれども、今日はそうは思わない、ということは自然そのものであり、それが故に生きているという証拠となる。あなたの取り入れた物質は同化されてあなたの身体となり、やがて古くなってしまった部分と常に入れ替わっている。あなたの意識、すなわち自我が同一性を保っているだけであって現実はそうではないとも言えるね。幼き頃のあなたと今のあなたは全く別人なんだけれども、自我というフィルターを通して見れば同一人物だと主張しているだけのことなんだからね。
