人生の数直線

日々

優しさ

優しさとは厳しさの中にある。逆にいえば厳しさがないのに優しさは存在することはできない。そういうとすぐに対立構造として捉えてしまって、不毛な二元論に陥ってしまうから注意は必要だね。どこまでいっても概念としての両極が言葉としてあるだけで、それは連続した差違でしかない。光と影というのも、幸せと不幸というのもそういう構造にある。真面目や不真面目もそうだし、優秀かそうでないかもそうだ。最近世界をモノクロームにしてしまった成果主義もそうだね。いわゆるプロセスという情にほだされる部分は、ひとそれぞれによって大きく違うので考慮外にしてしまって、結果だけを見て判断することが合理的でかつ判断コストが低いから普及してきたわけだ。身も蓋もない言い方をすれば、楽ちんだからそれを使っているということに過ぎない。人が何かを評価し、判断するときの少なくない手間暇を省略することができるという点では、これにまさるモノサシがまだ見つかっていないからね。

点数

見える化ということで、数値化できる尺度を設定することが多いのも同じ理由だ。数値化しにくいものは一切捨象してなかったことにすることによって、判断の迷いや困難さを解消している。人として一人ひとりに真摯に対峙するなんていうしんどさを回避することができるから、とても便利なツールだとも言える。定量的な判断なんてかっこつけて言ったりするけれども、逆にいえば定量化できないことは知らんぷりします、と言っているのと同じことだね。それぐらい数値化にはその背景をガン無視する作業が必須となるわけだ。そしてそれで結果だけが出ていれば、なんだかモヤモヤした違和感があったとしても、その違和感がノイズとして処理されるようになってきたわけだ。そしてその結果、どうだろう。皆が幸せであれば言う事なしなんだけれども、なんだかうまく言っているのはその運用であって、世の中そういうものだよ、なんてしたり顔で言ういけ好かない連中が増えてきたと感じているのではないかな。

甘くない

世間はそうやって世知辛いというか、世の中そんなに甘くないのよ、なんて一人語りをする知ったかぶりの大人が増殖したわけだ。そして、そのほろ苦さを埋める嗜好品が飛ぶように売れるのも、そのマーケティングの一環だったりするから目も当てられないわけだ。その一方で、そんなことは全く眼中になく、やりたいことだけをやる人がいる。そしてそういう人はバッシングされる格好の対象となっているね。夢と希望のネットワークのグローバル化が、生きづらい批判と中傷の道具と化している。数値化することで、目標の進捗や楽しさを再確認するのではなく、どれだけだめかというエビデンスとして悪用されている。どんな便利なツールもその使い方に悪意があれば、最悪の攻撃ツールと化すわけだ。そしてそれが正義だともっともらしく声高に叫ぶ人たちもいるから目も当てられない。そもそもいずれは消えゆく人生において、そんなもので一喜一憂している暇などどこにもないというのにね。楽しむために生まれてきたのは間違いないはずなんだけれども、どこでどうなったんだろうね。