愛し合ってるかい

日々

嫌われたくない

できれば良好な人間関係を構築して、それをずっと維持したいと思っているね。そりゃ、気まずい雰囲気でずっとその場に留まるのは辛いだろうから、ついつい当たり障りのない受け答えで波風を立てないように、そっとそっと、できれば息をひそめて目立たないように行動しているのかな。でも、嫌われたくないという思いはどこからくるのかというと、「愛されたい」という欲求からだね。愛されたいと思うことは、特別におかしいわけでもなく、みんなそう思っているだろうから何の不思議も感じないとあなたは言うかもしれない。でも、愛されたいとみんな思っているのが普通だと、どうして思うのだろうね。愛されたい対象のあなたは一体誰なんだろうね。

自分を好きになる

自己肯定感がこの国では一番低いと言う。いやいやわたしなんてまだまだです、とへりくだることがいいという風潮が強く残っているのかな。謙遜が美徳であるとされている時代からどんどん変わってきたというのに、いまだにそうなのは一体何がそうさせるのだろうね。よく考えてみると不思議なことだよ。まるで風土にとりついている何かのようにも感じる。自信満々で自己顕示欲が強いような、まさに「俺が、わたしが」と主張するような傍若無人な存在は、なぜ現代でも忌み嫌われてしまうのか。わたしの愛されたいという大切な思いを踏みにじられるからなのかな。でもわたしの思いが踏みにじられるって、どういうことだろうね。

愛想笑いと譲り合い

慈悲深くて謙遜する文化。我先にと利己で行動するのではなく、お先にどうぞ、私はあとでいいですから、という態度が好まれる。わたしもこの国の風土に染まっているので、そういう譲り合い、思いやりの行動をみると、無意識に微笑ましく感じている。けれどその本質はどうしてなんだろうと、ふと考えることはおそらく多くの人にもあるかもしれない。結局一見善意に見えて何ら落ち度のない行動の源泉はどこからくるのか。もしかしてそれは「嫌われたくない」という欲求からそうしているのか。「嫌われたくない」というのは「愛されたい」という欲求と同じだとすれば、廻り回って一番の主軸が「わたし」のことを考えての行動ということになる。そういう慈悲深い謙虚な存在であることが、その方が多くの人に愛されるからだとすれば、それは「わたし」だけのためのものでしかない。

真実と偽り

とはいえ、何もできずに傍観しているよりも、偽善でもいいから行動できる人になれと世間では言うね。偽善だと批判する人たちはどうしてそれを偽善だと言うのか。これも深く考えてみると根本は同じ「愛されたい」からきている。自己顕示欲が強くて、誰の目からも、それって実は「わたしは偉い人」って主張したいだけだろ、って見える行動も、いえいえ、わたしはあとでいいですから、と遠慮がちに振舞うのも同じ「愛されたい」というところからきているとすれば、見かけだけを見てどうのこうのと批判するのは、何も本質がわかっていないことになるね。いや、もしかするといずれにせよ「愛されたい」と主張し合うから、ぶつかり合うのかもしれないね。根っこは同じだからこそ、どう振る舞ってもうまくいかないのかもしれない。
はてさて、どうして皆がそろって「愛されたい」のだろうね。よく考えてみると不思議だと思わない?