そんなの関係ねぇ
規範
結論を急ぐとろくなことがない。それは先達も言葉に残しているぐらい、この世の理を表しているわけだ。急いで白黒つけると、その中間が捨象されてしまう。するとゼロヒャクとなり、良いか悪いかの二元論となる。それも気が付かないままそうなってしまっているので、当の本人はそんな狭隘な世界観に全く気が付かず、むしろそれが正義だと勘違いしてしまうわけだ。そんな状態で議論をしたところで、正義の鉄槌を下すだけとなるわけだし、対話を試みようとしてもすでに偏った断定が邪魔をして、核心には程遠くなってしまう。それが教育の場面では日常となってしまって、もはやそれが当たり前となっている。だから、上意下達の小集団の長を置くクラスルームは、閉鎖された誤った空間に陥りがちになるから注意が必要だ。指導要領や正義というモノサシが、いろんな新たな歪を生み出し続けて、それを力で抑え込むという形式にならざるを得ない。それを少し前では落ちこぼれと呼んで、排除対象だったというわけだ。
ネガティブ・ケイパビリティ
過去の記憶や実績から結論と正解を導き出し、それを絶対として指示命令する形式は、一旦の仮説をすべて受けれなければ成立しない。そこに少しの疑問や違和感を覚えたとしても、それを公言することは憚れるわけだ。それが集団としてのマナーであり正解だとする環境において、もはや探求や学びを深めるという行為は存在し得ない。それはその構造に原因があって、それをそのままにして夢中になるなにかを持ちなさいと指示命令したところで、それは本質的には全く意味がないからだ。結局のところこれからのAIの時代においては、どんなスキルが必要なのか、という議論になって、同じようにこんなスキルこそがこれから役に立つとか、将来の糧になるといった、いわば損得勘定で規定される良い悪いに成り下がってしまうわけだからね。結局のところ、どんな能力がお得なのかをいつも探しているだけのことであり、あなたが心から夢中になることなどはどうでもいいとなってしまう。今それをやっている場合か、なんて言う言葉は本来の知的好奇心を破壊する呪詛でもある。
宙ぶらりん
だから本来の生き抜く力を磨くためには、残念ながらクラスルーム形式では学ぶことはできないと断言して良いだろう。学校などの教育機関においてそれだけではないことが救いだね。人間関係やクラブ活動や休み時間に友人と生み出す遊びの中に、実は学びの本質があり、生きる力そのものを習得しているという残念な結果となる。なら授業は無駄かというのも早計で、そういう不合理さの中で特に結論を急がず、かといって、何かを生み出したり解決することもなく、そんな宙ぶらりんの状況をそのまま見つめる力ということが、実は本来の役割だと言っていいだろう。どうしようもないことを、なにをすることもなくそのまま見つめ続けることが、胆力というスキルであり、そんな中でも全く関係のないことを生み出し遊び尽くすというスキルこそが、生きる力を育んでいるのだからね。制限されて不合理な状況の中で、何かを解決したいという思いを押し殺しつつ、そんな状況下であっても夢中になれる楽しみを見つけることができるのならば、もはやそれ以上望むことはないだろうね。
