思考の罠
不幸の記憶
幸せよりも不幸の方がずっと覚えていることが多いね。それは、幸せは感じるものであり、不幸は脳内で繰り返し再生される記憶だからだ。幸せの記憶はそれほど残らないのも、不幸のほうが常に再生されている楽曲のようなもので、否が応でも強化されてしまうからだ。考えるな、感じろ、なんていう言葉あるように、人は考えることが美徳だと思いこんでいるけれども、実はそれは妄想であって実のところ考えないで生きていったほうがずっと幸せになれるのは、そういう構造的な違いによるものだね。好きな人の前では言いたいことの半分も言えなくて、ドキドキしているあなた自身がそこにいるだけで、思考を巡らせてはいないね。もう感性をフルマックスにして、そこで感じ取れるすべてを味わい尽くしているだけだ。ところが嫌いな人の気配がしただけで、実際には何一つ問題事が起きてもないのに、どうせこれから起きるだろうと頭の中はいっぱいになっている。記憶として残るのは単純に繰り返しの回数だとすれば、不幸を感じる回路のほうが優勢となってしまうのはいわば必然であるとも言えるね。
好み
結局のところ好き嫌いは、等しく同じ構造ではないことがこれでわかるね。要するに等しく並べて対義的な概念だと思っているかもしれないけれども、実はそうではない。嫌い嫌いも好きのうち、なんて言われている通り、嫌いな方がより一層強化されてしまう構造であるからだ。好きはなんとなくでいいし、理由などは後づけであって、それほど重要なファクターは必要はない。ところが嫌いの理由を上げようとすれば、おそらく留めなく噴出する泉のようにそれがすぐに言葉化されて出てくるだろう。もちろんなんとなくいけ好かないということもあるけれども、その原因を探せば困るほどその理由が出てこないことは少ないだろう。それでも他人がそれを聞いたとき、そんなくだらないこととか、取るに足らないことばかりでびっくりするね。そんなことで真剣に人を嫌いになれるなんて現実があるんだということを受け入れるのにかなりの斟酌が必要となる場合がほとんどだ。そう、あなた以外の誰かにとってはどうしてそれが原因なの、ということばかりをあなたは真剣に伝えようとしているわけだ。
うまくいくとき
そういった思考グセというか、実際の出来事とは別にあなたの頭の中で大量に発生している最悪の事態は、あなたを幸せにする力はない。だからうまくいくときは、思っても見なかったときであり、それほど深く考える時間がなかったときであり、実は単純にぼーっとしていただけのときなことが多いのもそういうことだ。それをたまたまうまくいった僥倖だとおもって喜んでいるけれども、実はそれがラッキーを引き寄せる姿勢というか態度であるわけだ。あなたの心の向きというか魂の方向を思考か感性かに振り分けることで、あなたの心の状態は大きく変化する。だからうまくいったときのことを思い出そうとするわけだけれども、先に言った通り、実のところ記憶としてはおぼろげでしかない。だからそれを再現しようと頑張ってみたところで、土台無理な話となってしまうわけだね。ところが嫌なことの記憶は実際の出来事以上に強化され、反復されおおげさなぐらいに悲惨な記憶として書き換えられてしまう。それをやめようとしてもとても困難なのは、思考は記憶の上にしか成立しないという、これまた皮肉な構造がそこにあるからだね。だからちょっと乱暴だけれども、あなたの思考はほとんどが妄想で嘘だと常に切り捨てることが少しばかりの緩和策となるだろう。
