自己研鑽

日々

変化

いろんな出来事が起こっている。けれどもそれらは単なる出来事に過ぎない。あなたが気がついていないだけで、外側の世界では様々な出来事が起こり続けている。そのすべてを知ることはどうやってもできないわけだ。あなたはこうして今穏やかな時間を過ごしているとしても、地球の裏側ではとんでもないことが起こり続けている。それぐらいはあなたも知っているつもりだね。もう昼夜を問わず世界中からニュースとして飛び込んでくるからだ。そしてそれらも選ばれた数少ない情報の一部でしかなく、そのニュースにすらならないことも山程あることも類推はできる。でもあなたはそのすべてを受け入れることなんてできるわけがなく、その対応にすべての時間を費やしたとしてもどれもこれも解決不能なことばかりだろう。そして今あなたはそんな喧騒から遠い場所で寛いでいる。もちろん明日になればまた厄介な問題があなたに襲いかかるであろうことも予測はできる。でもそれを電光石火のごとく一つ一つ解決していくなんてことは、これまでもこれからもおそらくはできないままだね。

内面

そもそも出来事は、単なる変化でしかない。その変化をどう受け止めるかで、大問題とか一大事だと認識するのか、取るに足りない瑣末事として捉えるのかということをあなたが決めているだけのことだ。だからあなたがそれをどう捉えるかで、同じ出来事であっても心の平穏さが大きく変化するわけだ。大抵の場合は大変だと騒いでなんとかしようとジタバタもがいてみても、結局のところ思っていた結末にはならないことばかりだろう。稀にうまく解決できた、なんてほくそ笑む瞬間があったとしても、結局のところそれはあなたの勘違いであったり、一人芝居に過ぎなかったりする。あなたが何をどう捉えるか一つで、あなたの心理的安定が保たれるのか、否かがそこで決まっているだけだ。だからこそ、同じ変化を見た時、それを表層的に見て悲観するクセをやめて、その変化の先の可能性に夢をはせることができる視座を見つけたなら、あなたは柔軟性を身に着けたとされるわけだ。寛容とか包容力とか言い方は色々あるけれども、出来事をなるべくそのまま見つめるだけという視点があなたの中で育っているかどうかという違いがそこにあるね。

結末

不思議なことに同じような変化を大騒ぎする人と、なんてことのないことだと静かに過ごしている人がいる。いやいやそれは一大事だろうと反論したくもなるようなことでも、平然と冷静にできることだけを淡々とやっている人を見て、あなたは憤慨するか、呆れている。おそらくはそういう現象のカラクリは、見ている世界が全く違うということに起因しているのだろう。なら、あなたも変化に対して柔軟な対応ができるようになるには、同じような視点を持つことが必要だと感じるだろう。そしてそれがなぜできるのかを、その人にたずねてみたりする。でもその答えはあなたが思っているそれとは全く期待外れな場合が多いね。考えてみればそうなるのは当たり前なことで、そもそもあなたの世界とその人の世界が全く違うのだから、その回答を理解するための重要な視座が噛み合っていないのだからね。だからそこから何かを真似して学ぶことはほとんど不可能に近いだろう。ならどうしようもないのかと諦めないで、あなたの世界をブラッシュアップしたり書き換えたりするためには、内面を磨くことしかできないのだから、実は今のままでいいという奇妙な結末となるわけだよ。