基準の更新
適材適所
優秀さはときに、それ自体を切り出して語られることが多い。友好的で判断が早く、知識と経験も豊富で、忍耐力も優れている。そんな人が優秀だとされがちだね。それらはすべて特性であり、行為上の判断でしかないわけだ。もっとシンプルに言えば物知り博士で、何を質問してもすぐに答えが返ってくる。その状態をもって他より優れているという分類箱に入れてしまうわけだ。しかしながら歴史を見れば明らかなように、そんな優秀な人であっても時と場合において結果がまるで違っていることに気づくだろう。あれだけ聡明な頭脳や卓越した能力があったとしても、時代にそぐわないとなんの功績も残せなかったという評価になってしまう。すなわち、能力はそれだけを切り出して評価することができないわけだ。その人が本来の力を発揮できる状況にあるからこそ結果が出るのであって、場違いなところでは普通の人よりも低い能力しか発揮できないね。要するに宝の持ち腐れとなってしまうわけだ。
文脈
どんな人でも歴史的背景から逃れられた人はいない。あるときに有能な人を違う場所へ持ってきても、同じような好結果を出すことはほとんどできないのもそのせいだ。そんなに大げさな話ではなくても、よく上司や先輩の昔話につきあわされてうんざりした経験があるだろう。あの頃はとてもうまく行った、なんていう物語を延々と語られたとしても、あなたにとっては参考にすらならない場合が生まれるのはそういうことだ。今と昔では状況も価値観も社会的インフラも何一つ共通点はない。それでも、なんとか抽象化してその昔話からエッセンスを抽出して参考にすることはできるだろう。けれどもそれすら億劫になるぐらい、想定される状況が違いすぎるので鬱陶しいわけだ。当の本人はそこで時代が止まっているから、いつまでもその昔の成功話や過去の栄光にすがりついてしまっている。だから、せっかくのいい話も単なる自慢話で鼻につくだけの小言となっている。実にもったいない話ではあるね。
校正
万能な人や潰しが効く人もまれにいる。けれどもそれは、究極的には中途半端となる。あらゆることにおいて満点はないけれども80点でいいじゃないか、ということで言うと優れた人に分類されるだろう。でもそれはある程度時代の流れが緩やかで、昨年と今年も同じようにやっていれば大きく変わらないという前提がそこにあるわけだ。それを抽出したのがいわゆる教科書と呼ばれるものだね。定石だったり、定番だったりする。そしてそれを礎にして、多少の変化にも対応できるように応用問題を想定しているわけだ。ただここで注意しておきたいのは、ベースが状況の変化を捨象しているという点だね。社会学における原理の抽出も、細かい変化や時代の価値観の変遷、産業構造の進化までは取扱範囲外だということだ。そうしないとある程度通用する普遍的な構造を導き出すことができない。そしてそれをベースに学ぶことで、優劣判断をしているということがあなたのモノサシになっている。だからそれ自体を書き換えて更新しないと、ズレがどんどん大きくなってしまうってわけだよ。
