報復

日々

規則

世の中には様々なルールや規則がある。たくさんの人々が生活するにあたって、できるだけスムーズにことが運ぶように定められているものであり、いろんな衝突をうまく回避するような設計になってることが多いね。自分だけのことを考えて、好きなようにして誰かとぶつかったときに、基準となるものさしが必要だからだ。基本的にはそれぞれに自由が認められていて、それを最大限制限しないままにしようとするための取り決めだとも言える。それがなければ、衝突したときにどうやってそれを調停するのかがわからなくなってしまって、お互いが途方にくれることになる。さらに言えばそのことで、お互いが不自由な時間を過ごすことになり、そのまま悶々として過ごさなければならなくなってしまう。それを防ぐために言葉化した決まりを策定しているわけだ。けれどもそれも万能ではないのは、言葉化することによって微妙なニュアンスや風習や習慣や、思いやりとか良心とかがそこに含めることができないからだね。それが実は言葉化の限界であるとも言えるわけだ。

言葉の世界

一方で、あなたが認識したり理解したりできるのは、そういった人の思いとか心意気とかそういう感じられる人には伝わるというような、曖昧な事象ではない。もちろんそれも直感的に感じることではあるし、全くそんなことを知らないままというわけではない。けれども、そんな文脈やコンテキストを読め、と毎回言われたところで、うまくできるときもあれば、そうでもないときもある。だから仕方がなく文章化、記号化できる範囲で決まりごとを、できれば抜け穴もないように記さなければならないわけだ。もちろんそれが全てではないことを前提しているわけで、そもそも言葉化するということは、感情的なことや感覚を捨象することである。明確な事実関係とそれに伴う因果関係によって記すことでしか、原理原則を記録することはできないわけだ。したがってあらゆるきまりに関しては、なんとなく不十分で不公平だと感じてしまうわけだ。

感情と勘定

変な話、これだけの悪いことをしてしまったら、償いはこれぐらいだろう、なんていう量刑相場みたいなもので罰することしかできない。やられたほうはそんなものがどうであっても常に許しがたい感情は残ってしまう。さらにいえば、それが回復不可能で不可逆なものであれば、どうしたって償うことはできないと思うだろう。だから極刑を望むこともあるだろう。けれどもそれもまたそうなったとしても納得できるのかというと、それもまた怪しいわけだ。報復は幸せを生み出すことはなく、不幸や悲しみしか残らない。さらにそもそも感情的なそれを鎮めるための方策はそもそもなくて、何をどうやったところで所詮無理な話だ。一方できまりごとは理屈では筋を通すことができるだけだ。だからこれで手打ちにしようなんてできるのは、不可逆的なそれではない時限定となるね。いずれにせよ、取り返しのつかないことは、どうしようもないわけで、それをどうにかしようとする行為自体をなんとかやめないと、報復合戦になってループしてしまうわけだ。