後でわかる仕組み
主体性
自ら問いを立てて、どうしてそうしたのかを考え、それに基づいて行動することが今後の社会にとって重要だとされている。一方で見えない雰囲気や空気を読んで、それをそっと包み込むように自らの言動を密やかに制限している人もいるね。どちらが正しいとかという二元論にしてしまうと、そもそも対立してしまって不毛な議論で終わってしまうだろう。その原因の一つは、そもそも二項対立させることではないからだ。主体性というスペクトラムを重視しつつも、だからといって傍若無人な振る舞いをしていいとか、せざるを得ないという次元で全くもって主体的ではないとも言える。すなわち純粋にそれだけの形質がそこに現れるわけではなく、たくさんの重み付けの中で、無意識に試行錯誤して調整しているのが事実だろう。純度100%のありもしない概念を戦わせたところで、その結論は不毛なものになることはこれでわかるはずだ。すなわち議論して論破することの意味が、思っているほど少ないのはそういうことから説明できるね。
依存性
他者貢献ではなく他者依存でうんぬんという説も、同じようにあまり意味を持たないのはそのせいだ。誰かに何かを指示してもらわないと何も出来ないという現象は、ある部分的な、しかもその瞬間の切り取りでそれが浮き彫りになるだけで、本質をついた解明ではない。そういう要素も多分に含まれているというだけで、人生の生き残り戦略のある部分的な局面に過ぎず、だからダメなんだという結論は早急するぎるね。そのときはそうなっていただけであって、それだから主体性を育まないと、なんていうことをあれこれと語ったところで、結局はなにも変わらないわけだ。すなわち、依存が良いとか悪いとかという、これまた二項対立で説明しようとしたとき、ヒーローとヒールが同時に存在しないとなりた立たない勧善懲悪なドラマが成り立たないのと同じで、そもそもの論点とその根拠自体がそうではないということを示している。概念上の両極をいくらぶつけ合っても、どこまでも概念で終始してしまうのはもはや必然だろう。
わかりやすさ
ここで、世間一般のわかりやすさという魔物がすべてを濁らせていることを知るだろう。わかりやすいということは、極端にどちらかにまとめてしまうことであり、その他の重要な事項をすべて都合よく排除しているからだ。もちろん、思考の出発点としては有効なものであるかもしれない。けれどもその出発点がありもしない状態を想定しているから、結局のところそこから導かれる原理というものも、どこかよそよそしく使えそうで使えないセオリーとなってしまうね。経済理論でいうと、合理的な消費性向があるという経済人を想定しているし、純粋物理学では摩擦係数や空気抵抗などを一旦排除した世界を仮定しないと、パラメータが多すぎてシンプルな原理には至らないわけだ。特に人の意思決定においては、すべてが経済的な指標と一致することなんてほとんどない。だからそう単純化できる話ではないけれども、一時的な数値を切り出すとそれを「後から」説明することができる。そう、大抵のわかりやすさは、「後から」説明したものばかりだということだよ。
