流れ続けている
寛容
すべてをそのまま受け入れることが昨今ではかまびすしい。ネガティブ・ケイパビリティとか寛容とかあるがままとかそんな言葉で世間を騒がせている。いま大変革が起きており、コロコロと従来の価値観が打ち壊されていく時代においては、選択肢が増えすぎて、何が正解かと問うことさえ目移りしてしまうからだ。これまで当たり前だと思っていたことが、実際のところあなたの知らないところでそうではなくなっているとか耳打ちされてしまうと、動揺は隠せないのは無理もないだろう。ならどうしたらいいのか、なんていう問いを立てたところで、誰に聞いても答えがバラバラでどれが正解なのかわからない。そんな状況ならば、えいやとあなたはこうだという所信表明を強いられてしまう。それは一番あなたがこれまでできれば避けてきたことであり、なんとなく流れに従って右へ倣えできたことが露呈してしまうね。決断とか独断とかそんなことはしなくても、誰かの言うとおりに従っていればよかった時代を懐かしく思っているかもしれない。
枠組み
それもこれも、できれば流れに波風を立てずに、穏やかに過ごしていたいという気持ちからだ。しかもそれまでの周囲の手厚いサポートがあったから、それもそこまで難しいことではなかった。ある意味牧歌的な社会の中で、大雑把な枠があらかじめ用意されていた環境に安住してきたわけだ。ところがその枠がそもそもなかったことになった瞬間にあなたがしなければならないことは、自らその枠を生み出すという、これまでやったことがないことが突きつけられている。やったことがないから戸惑いながらも仕方なくやろうとするのだけれども、それがどのぐらいの強度でどのくらいの範囲にするのかを自ら設定することで消耗してしまう。何かお手本がないかと探し回って、一旦はそうするものの、どうもそうじゃない感がいつもあなたを悩ませている。好きにするとか自由でいいんだよ、なんていう言葉自体が呪いの言葉と化してしまう瞬間でもあり、心からどうしたらいいのかと叫んでいるわけだ。
お手本
だから、お手本を探し回っている。そこで登場したのがAIやSNSなどの情報社会だね。そこで相談相手をそれに求めて、その有象無象の情報の中で溺れそうになっている。それが指し示す正解は、決してひとつではないという事実を明らかにするだけの増幅装置だからだ。文化や風習や好みや習慣によって、何が正解かということが大量に陳列されるだけで、最終的にあなたがそのどれを選ぶのか、もしくはそれらとは違う何かを生み出すのか、そこまでは教えてはくれないからだ。正解がある意味、たくさんあるという事実は、これまであなたが正解だと思っていたことがその一部でしかなかったということ。そしてそれを再確認させられる中で、ますますあなたは何をどうするかを突きつけられてしまう。そんな状況からあなたが辟易として離れた時、あなたの眼の前には大きな川が流れているのが見える。川はずっと流れ続けていて、水はとどまることなく変化しつづけている。あなたは川の流れをどうしようとしていたのだろうね。
