今なんていらない
私とあなた
私という言葉を使う時、英語なんかでは厳格に言葉を使い分けるね。でも日本語の場合は、そこが省略されて曖昧なままだったりするか、英語学習はとても困難に思う人が多いだろう。あなたは私ではないし、私はあなたではないという区別も突き詰めて考えると不思議なことが起こるのは哲学的な命題となって久しい。どれにもいろんな学説があっても、結局のところこれが正解というものはなく、どう捉えるかという問題に帰着しているようだ。そしてそれを考えたところで私の暮らしは何も変わらず、視座の移動によって感じる総体が動くだけのことだ。そんなことは一見時間の無駄だと言うのも、経済的合理性という視座によるものであって、それこそまさに生きるということだと言えば、それはそうなる。したがっていずれにせよ問いに対する一旦の仮説であって、それしかないという喉から手が出るほどの正解ではない。正解がないような言葉遊び、すなわち思考実験はどちらかというと軽んぜられる時代だからこそ、実のところはそれが指針として重要性を増している時代とも言えるわけだ。
概念
時間や恋愛や死生観などはすべて概念と分類される、ありそうでそこに見えないものだ。時計をみれば時間はわかるし、体内時計と呼ばれるしばらくすれば空腹になったり眠くなったりする感覚はある。しかしながら今という概念はとらえどころがなく、時間が過去から未来へ流れているという観念で見れば、今が一番危うくなる。それは今というのは時間に流れという要素を用いてしまうと、この瞬間と認識するたびに直近の過去という括りになってしまう。だからもっとレンジを広げて、2,3日前は過去という括りに入れずに、最近であり今と言ってもいいだろう、ぐらいな感覚でしか捉えれきれないね。それも人によって、今日という範囲も広すぎると感じるだろうし、数分前であっても今じゃないと思うこともあるだろう。なにかインシデントやアクシデントを突き詰めて振り返ると、1秒でもずれていたらそれは起きたり起こらなかったりするわけだからね。どんどんミクロへ突き詰めると数ミリ秒とかの単位しか今と呼べないかもしれない。それもこれも視座の移動によってすべては曖昧に、しかも連続的に変化するわけだ。
時制
過去も未来もある目的だとすれば、今はすべて無意味な時間となってしまう。今を生きているはずなのに、今をできるだけなくそうとすることになる。目的地があって、そこに移動するために電車に乗っている時間は、できれば少ないほうがいいと思うだろうし、夢を叶えるために努力している日々はできれば短いほうがいいと考えるだろう。なら過去はどうか。過去とはそれらのプロセスがまるまって記号化されたものだね。それもかつての目的がそこに記憶や記録として残ったものでしかない。18歳のときに高校を卒業した、なんていうのは過去であるだろうけれども、その中での活動や葛藤や苦悩なんかはすべて捨象されたものであり、実のところなんの情報を持っていないただの文字列となっている。しかしながら、鮮明で詳細な記憶がなにかのきっかけで蘇ることがあるだろう。一枚の写真を見てパーッと映像やそのときに感じた匂いが蘇ってくることがある。けれどもその瞬間は日常という時間は止まってしまう。だから日常生活に支障が出るから、ほとんど封印されているわけだ。いずれにせよ今が一番厄介者になっていることに気がつくだろうか。今を生きているはずなのに、今が無意味だとずっと軽んじているわけだよ。
