例外なくすべては変わる

日々

不易流行

この世には変わらぬものはない。それを釈迦は諸行無常と説いた。その後松尾芭蕉は、不易流行と俳句の世界観を説いた。どちらも相反するものではないね。すべては流転するわけであり、変化せずにそのままであるものは何一つ無いという法則にあなたは支配されている。それでも変わらぬものを見つけようとして、それこそ七転八倒してきたわけだ。そしてそれは表面的ななにかとか、現象がそれだということだと誤解されがちだけれども、本質的にはそうではない。もとの一つ、すなわち根っこの部分が同じだということを示している。だから変えてはいけないことと変えざるを得ないことなんていう二元論ではないということだ。すべてのものは移り変わるわけであり、それを頑なに変えないようにすることによって、すべての災い事が起きるわけだ。ということは、変化がまさに本質であり、変えてはいけないことなんていうものはこの世にはない。ところが、簡単に変えてはいけないこともある、なんていう曲解によっておかしなことになっている。大切なことなので何度でも繰り返すけれども、すべては例外なく変わっていくのが自然の流れだということは忘れないようにした方がいいね。

権威

これまでのやり方や方法に何らかの強い意図が加わって、不易だという言説がはびこることがある。しかしながらそれは不自然であり、結局のところそれほど長くは続かないことは自明の理であろう。それは教育であったり、家族との絆であったり、礼節であったりするわけだけれども、まさに村社会のあり方や人々の絆や倫理観などはどんどん変化し続けてきたということは歴史を見れば明らかだろう。人に対する思いやりとか、慈悲の心はそのまま永遠で、いつまでも変わらないことが美徳とされる。けれどもそうだからこそよくよく検証する必要があり、無批判にそこを受け入れて思考停止になりがちな落とし穴だということに気をつけた方がいい。確実に言えるのは、時代によってそれが美徳かどうかということは大きく変化しているという事実を上手にはぐらかされているからだ。いまだに敵討ちや仇討ちなんていう志向を持っている人がいる。けれどもそれはとうの昔に廃止されたもののはずだ。サムライなんていう言葉でもって、それらが連綿と続いた死生観だとかいう議論も行き過ぎで、そもそもそんな身分制度の社会は、もはや今では幻想に過ぎないわけだからね。

諸行無常

それらがこれまでにどんな災いごとをもたらしてきたのか、という分析いついてはなぜかとても甘くなってしまう傾向にある。それが廃止された以降の社会がどれほどマシになったかということを通り越して、だから堕落したという議論になりがちだ。しかもそれを受け入れる雰囲気があることがかなり危ないと言わざるを得ない。もう過去の惨劇を繰り返すまい、と誓っている言葉の中に、まだそれらの歴史的思想に対する郷愁が含まれているからだ。そんなことをいつまでも続けているから、災い事が減らないわけだからね。そうではなく、今はもうアップデートされた時代であり、良い悪いという基本的な倫理感を書き換えないといけないわけだ。やられたらやり返すというシンプルな論理は、おそらくはヒトの脳での認知の限界を示しているのかもしれない。けれどもなんとかそこを踏ん張って次の扉を開く努力をしなければ、また同じことの繰り返しとなってしまう。それこそ歴史を少し紐解けば、何度も同じことを繰り返してきたことぐらいは、すぐにでもわかるのだからね。