寛容と不寛容
優位性
なにかとなにかを比べて、どちらのほうが優位性があるかを考えるのが今では一般的だね。それ故に、より良い施策、より良い行動、より良いなにかばかりにとらわれて、それ以外の思考の幅が削られてしまっているとも言える。そしてそのベースにあるのは、良い悪いというあなたのモノサシであり、それが実はなんとなくそうであるとか、誰かがそう言っていたとか、そういう知見の集大成でぼんやりと作られたものに過ぎない。だから、例えばわかりやすい言葉でいえば、コスパであり、タイパと呼ばれるもので、よりお得で、より省力化できるものが良いモノサシとなっている。ここで気がつくことがある。より悪いものをあえて選択するという選択肢がすっぽりと抜け落ちている点だ。良いという方向に全力疾走してきた人生において、ちょっとそれは無駄かもしれないという悪い方向へあえて進まなかったということは、人生の体験においては不十分だと言っていいだろう。なぜそんなことを言えるのか、という理由は、良いという方向には逆の悪いなにかがないとそれ自体が成立しないからだ。すなわち表と裏の関係であって、どちらか一方だけが存在できないモノサシであることには異論はないだろうからね。
裏の裏
すなわち、悪い選択とまでいかないにせよ、好ましくないとされていたり、それは間違いだと喧伝されていることは、どう頑張っても消えてしまうことはない。むしろベストチョイスだという裏打ちをなにか支えているかということを考えてみれば、最悪な選択がそこにあるからだ。そしてそんなのは誰もが選ばないとされていると信じているけれども、実のところあなたと真逆な存在は、これまで消え去ったことはない。それほど極端な例でなくても、それはあなたにとってあまり好きじゃない選択であったり、そうしている人を理解できないことは多々あるはずで、それだけ絶対的な正しさを求めると、実のところ絶対的な悪手が同時に生まれてしまう。良い悪いというモノサシに立ち返って、それは本当にそうなのかを細かく分析してみるとすぐにわかるのは、あなたが拠り所にしていたそれは、まるで曖昧でしかないということだ。善悪や良し悪しの判断という、基本的なスタンスが決まる重要ものであるにも関わらず、目盛りを見つけようとしてもぼんやりとして掴みどころがないなんて、にわかには信じがたいだろう。そう、事実として良い悪いという感覚はあなたが思っていたそれとは違うわけだ。
姿勢
まれににっちもさっちもいかないような、やんごとなき事情に向き合ったとき、どうしてもこれまでのモノサシでは測定不可能なことが起こる。そのときに初めてぼんやりとしたあなたの根拠であるそれは、アップデートされるようだね。これまではそれはないだろう、という選択肢を取らざるを得ない状況になって渋々そうしてみると初めて分かる真実がそこにあったりする。なんだ、それで良いのかとか、それもありなんだということにはじめてきづかされる経験をすることによるわけだ。そう、やってもないことをまるでやったことのように思い込むことで、日常の決断を楽にしているだけのことであったわけだ。おそらくはぼんやりとした良い悪いのスペクトラム野中で、具体的になにかを避けてきたのはそのためだったんだよ。ということは、あなたが思う良い悪いには、絶対的ななにかは全く含まれず、かつ流動的に変化し続けてきた気まぐれと言っていいだろう。それに依存して、何かに怒りを感じたり、誰かを強烈に恨んだりしてきたわけだ。それがわかると少しは寛容さという真実に触れることができるだろう。そう、怒りや苦しみなどの感情は、いっときでしかない風向きでしかないのだからね。
