飽き性

日々

興味津々

たぶん小さい頃からそうだったんだろうけれど、熱しやすく冷めやすいといか、興味が湧いてくるとやってみたくてしょうがなくなる。だからできることからどんどんやり始めるんだけど、そうやって新しいことをやり始める準備をしているうちに、なぜか急に冷めてしまったりする。どんだけ飽きっぽいんだよと言われるけれど、こればっかりは自分でコントロールすることができないみたいね。でもある程度人生やってきて最近気がついたのは、そんなことを繰り返しているうちに「どうせ飽きるんだろうな」とどこかで思い始めていること。あ、これ面白そうだな、と思ったと同時に「どうせ飽きるんだろうな」とセットになっているんだよね。確かに生きる知恵として、以前よりはこれで大量に「やりかけ」のものがなくなったとはいえ、本当にこれでいいのかと自問自答するんだよ。つまらない人生になっちまったんじゃないかと。

熱量を抑える

若い頃は、見るもの聞くものが新鮮でいつも驚きと感動をそこから受けていたね。やりたい放題にやりたくて仕方がなかった。ああ、これはなんだ?これはどういうことだ?なんて興味関心が尽きず、ついには人の話だけじゃなくて自分も試してみたい、体験してみたいという思いが大きく膨らんでいったね。で、あれもこれもといっぺんに手を出すものだから、結局はどれもこれも中途半端に体験して、途中で飽きてそれで満足して終わっている。将来の夢は何ですか?と聞かれると、聞かれたタイミングでコロコロ変わっていたし、ついには、たくさんありすぎて周りに呆れられたりする。それぐらいの熱量をいつも持っていたんだね。だけど、すべての興味関心をやり遂げるだけの量ではなかったんだろうね。小利口な人は、一点集中すればもしかしたら今もその道の達人として続いているかもねとかも言ったりしている。そんな計算はその当時には微塵にもなかったね。ただただ触れたいという思いだけだったからね。

未来なんて待たせとけ

今はとても合理的に人生を語るね。だから例えばプロになるには、1万時間の練習が必要とか、そんなことをしれっと語ったりする。わたしは達人になろうとして物事をやり始めているのではなくて、ただ単に興味が湧いて、面白そうだからという理由だけだった。だからこそ、あれこれと視野が広がって全部中途半端になったわけだけど、それでいいんだよね。もちろん、それを選択して集中したら将来達人になって、なんて考えてそうコントロールしたら、もしかしたらそうなっていたかもしれない。でもそもそも自分を感じるためにやっていたことであって、それが人を感動させるような技量を習得するなんて目的はこれっぽっちもなかった。それはもったいないことなのかな?未来とか過去とか時間とか考えるよりも、今楽しいかどうかで全部決めてしまっていいだよね。「どうせ飽きるんだろうな」といつの間にかわたしも小利口になっている。一番怖いことだね。そんな「未来」からくるメッセージをわかったふりをするとか、他人がそれって何円の得になるの?なんていう雑音はすべて捨ててしまおう。今を大切にできるかどうかが全てだからね。