懐疑と盲信

日々

信じる

何かを信じ続けることほど、骨が折れることはない。それぐらい信じるということはいわば不自然な行為だとも言えるね。逆に疑うという行為は、一般的にはあまり良い行いだとは思われないけれども、実のところとても自然だということでもある。本当にそうなのか、それを信じた先には何が待っているのか、そんなことがたびたび頭をよぎるわけだ。そうやってふと立ち止まることは、あなたの安全を守るための本能でもあるわけだ。いわば生存本能の一部である危険予測機能がそうさせるわけであり、それが行き過ぎると危険を冒そうとしてしまう決断をまるで自らがしたと脳が錯覚してしまうほど強力なものだ。高いところの塀のそばにいるとき、ここから飛び降りそうになったり、足元が震えるにも関わらず、そこから大切なものを落としそうになったりするのも、脳の危険予知を自らの判断として錯覚してしまうためのものらしい。これらのことからも、なんの疑いもなく信じ続けることを無理にでもやろうとすれば、脳を停止させてしまうのも納得がいくだろう。

疑念

したがって本来の意味での信じるという状態を維持するには、常に検証し続けることが必要であり、そのための労力は半端ないわけだ。だから四六時中本当にそうなのか、という発言ばかりになってしまうし、行動するにせよ慎重にならざるを得ない。それがいわば自然な状態であり、常に脳がリスクヘッジをしている証拠でもある。逆にもうどうなってもいいと投げやりになったり、考えることすら疲弊してしまって、もはや思考停止になればそれは容易いわけだ。本来の自然な疑うという機能を捨ててまで信じようとする根拠は一体どこにあるのだろうか。それを深く考えてみれば、結局のところ無駄な労力を避けようとするだけのことになってしまう。だから、どれだけ良いことだと思ったとしても、それは本当にその通りであって、そこに一切のリスクが存在しないのかどうか、ということを停止してまでのことかどうかをやはりチェックしてしまうわけだ。それで正常なのだから安心していい。それをいわば破壊してしまうことが現代の教育がやっていることだとも言えるね。

洗脳

究極までに疑念を持つという自然状態を破壊することで、いわば無思考であり、そのことに無自覚な人格を形成できる。それが中途半端ではうまくいかないのは、生存本能の強さがそうさせている。これを実現するには幼少期から始めないと不可能なぐらいの強い能力であり、疑うことを停止させるにはそれぐらいの手間暇がかかるわけだ。学歴信仰だとか、その派生での役職や肩書を疑わないというベースを生まれた瞬間から仕込まないと実現不可能だからね。そうやって、基本臆病で疑ってばかりの本来の能力を削ぎ落とすことで、社会での衝突を防ぎ、統制がとりやすくなる。人生というOSを構築する際に、疑う力を徹底的に最小化することによって、命令に従順な人格をようやく構築することができる。それは一体誰にとって都合がいいのか、なんてことを疑うようでは出来損ないとなる。でも、それで良かったじゃない。疑り深さをいまだ維持できていることは、そういう意味では数多な試練を上手に切り抜けてきた証でもあるのだからね。