評価不要論
スポーツカー
世界で1位2位を争うレースでも勝てるような、いわゆる高性能でハイパワーなスポーツカーに憧れたことがある。特にあなたはエンジン付きの乗り物にゾッコンで、スペックを見ているだけでもゾクゾクするわけだ。そこには人類の叡智というか技術の結晶がこれでもか、というぐらいに詰め込まれており、とてもじゃないけれどもあなたがそれを手にすることなんて夢のまた夢だね。手に入れることができないからこそ、それは夢であり、希望でもあるわけだ。一方で冷静にその存在意義を考えてみれば、全く持って不要なものだと気づくだろう。カリカリにチューンした結果、技術もない一般人からすれば手に余るわけだし、そもそも扱いが難しい。そして環境性能としては最悪で、同じ距離を移動するコストを考えてみれば、全く実用には耐えないぐらいに無駄が多い。さらには運転もしにくく、乗り降りは絶望的だね。ちょっとした買い物の荷物や、友人を2,3人同乗させることすらできない。すなわち全く持って使えない代物に違いないわけだ。
エリート
それは、何かに特化したモノの特徴でもあるわけだ。すなわち唯一無二の速さを追求した結果、他のすべてが犠牲になっているということ。そしてその分野では超がつくほど優秀だけれども、それ以外は全くもってポンコツだね。もはや潔いぐらいにとんがっている存在だ。それでもレースに出場して1位を取るという目的がないにも関わらず、スポーツカーがこの世に存在している理由は一体どこにあるのか。あなたはレーサーでもないし、特別な訓練を受けてきたわけでもないにも関わらず、憧れの存在として見ている。もちろんそれを日常に持ち込もうとは今は思っていないかもしれない。けれどももし手に入るのならば一度は乗ってみたいという思いはある。それは人にも当てはまるわけで、超エリートと呼ばれる肩書を持ち、超一流企業に所属して、莫大な給与をもらってみたいと思っているのと似通っている。現実的には、そこまではいかないまでも、今見えている選択肢の中においては、それに近いものを選ぶことだろう。しかしながら、なぜそれが選択基準になるのか。それを具体的に説明することができるだろうか。
良し悪し
あなたはできることなら、良いことばっかりで埋め尽くしたいと思っている。一方で良いことという概念を生み出すには、対極の悪いことも同時発生してしまうわけだ。ベストな選択という裏には、最悪なそれもないと成立しない。スポーツカーはある限定条件においては、その高い能力を発揮することができる。けれども、一般的には不要な存在だ。それと同じで、あなたが思う優秀さは実のところそれと同じだ。誰かに優秀だと言われたいとぼんやり思っているけれども、それを求めることそのものが見当違いということになる。あなたはとりわけ優秀でも無能でも最悪でもない。それが真実である。だから無理に尖らないでいいし、そのためにいろんな犠牲を払う必要もない。究極的には誰かに好かれなくてもいいし、認められなくてもいい。あなたがあなたでいいというのは、ただそこにいるだけでいいということだ。そこに優劣や良し悪しはまた別次元のものなんだからね。もちろん彩りとしての効用は多少あるから、それが楽しいのならばおまけで付け加えてもいい程度のものでしかないわけだよ。
