見かけと本質

日々

文字

思考は文字でしかできない。体験を文字化して記録として残すと、それを利用して体系化できる。それは多くの人にとっての情報となり、知識となって定着していくわけだ。ただ、文字という情報は、その場ですぐに言葉化できるもの以外、すべてを伝えるには困難な感覚的な状況を伝えるにはかなり限定的となってしまう。多彩な比喩表現や文法的なトリックを駆使して記録しようとはするものの、それらと同じレトリックをそもそも習得していることが大前提となってしまう。すなわち仮に文字やデータに変換したとしても、それをどこまで咀嚼して疑似体験ができるかどうかは、受け取る側のスキルに依存するという欠陥を持っているということだ。そもそも何言っているのかわからない人が多くなると、どれほど心血を注いで文章を綴ってみても多くの場合は一部の人しか受け取ることができないというジレンマに陥ってしまうわけだ。

読書

学校の教科書は、それこそ伝える文章を生み出すのに全精力を傾けて作られている。しかしながら、そのことによって情報量が多くなればなるほど文脈を読み解けない人も増えてしまう。その二律背反の中での想定された、読解力を基準として制作されている。ところが、それもだんだんと伝わらないようになりつつある。だから今度はアニメーションや動画にして、映像化することでなんとかそれを補助する試みがこれまでも続けられてきたわけだ。ところが文字を読むという習慣がそれによってますます希少となり、記号を読み解くという機会もずいぶんと減ってしまった。さらには、大抵のテキストはテストとセットになっていることが多いから、いい意味でのシンプルな構文で、エッセンスだけをさらりと記述したものを丸暗記するというゲームと化して、文字という記号の向こう側にあるニュアンスやコンテキストなんかを、自ら紡ぎ出すということすらやらなくなったわけだね。

あなたとAI

世間を騒がせているAIは、LLMというものだ。すなわち文字での学習による知能を計算機で実現したそれだね。すなわちそれは文字という記号を処理することで、ずいぶんと飛躍的に発展したのはご存知だろう。逆に言えば文字化していないことは、AIでの処理は不可能だということだ。すなわち実際の体験であったり感覚的なことは全く捨象されている。わかりやすい表情であったり、感情を模した発言はかなりできるのも、我々の機微の数パーセントをなんとか文字化したものに依存しているのであって、それらの推論は、わかりやすく大雑把だ。そしてそれはあなたも同じことだろう。言葉にならない気持ちの揺れ動きは常にある中で、そのほんの僅かな感想を行動化し、文字化できるように変換しているからね。すなわち同じ数パーセントの情報を出力していることには変わりない。けれどもその裏側があるあなたと、それしか知らないAIとは、その部分では雲泥の差があるわけだよ。