節目
連続
もう終わった、なんて思う瞬間があるだろう。もちろん一区切りということでそういう節目を大切にする文化がこの国にはまだ残っている。それは世界に目を向けても、特に何がどうなるという明確な終了や転換がなくても、その儀式と風習だけはずっと残っているわけだ。そういう意味では終わりはあるようでないね。よく言われるようになにかが一段落して一区切りがついたとしても、それは新たな出発点であり始まりであるわけだからね。そしてそれはあなたがいるときだけではなく、やがてこの世にいなくなったとしてもずっと続いているということも想像に固くないわけだ。そう、実のところ結果とか終了とかそういう概念自体は成立する瞬間は具体的にはないということ。それはあなたが決めることであり、あなたがそれが終わりだとマークすればそうなるだけのことでしかない。
儀式
だから、循環の流れはあなたがどうこうできることではなく、あなたがそう思ったらそうなるだけのことで、それ自体が連続性にいるという証拠でもある。巡り巡って今しかなく、未来も過去も実際には今にあるわけだ。だから記憶の中で過去からやってきたことをいつでも終わりにすることができるし、逆にまだまだ終わらないと延長することも自由自在なわけだ。だからこそどこにいるのかわからなくなる。それを一旦整理するための節目を、先人たちはわざわざ生み出したわけだ。そして気持ち的には別になにか大転換するわけではない、日常の一コマに色を付けてわかりやすくしてきただけのことだ。でもそれによって、あなたは何度も冷静さを取り戻すことができたわけだ。だから形式的な儀式だと知りながらも、きちんとそれを遂行してきた背景がそこにある。
印
永遠の循環の中で過ごすと、あなたは迷子になることが多くなる。ずっと繰り返しの中で、かろうじて季節の変化ぐらいは肌で感じることができる。それを利用していくつかの区切りをつけたわけだ。そしてそこで一旦立ち止まって、次のステージに対する準備というか心構えを整える。すると、体調の変化も、気分の変化も、そこで調整することが可能となるわけだ。要するに、外部的な要因をそこに据えることで、内部的な不安定さに対して安定化させるという効果を期待している。時間に印をつけることはできなかった時代から、ずっとそれをどうにか捉えようとする挑戦の証であるわけだ。儀礼的なことは軽んずる傾向にある現代において、もう一度節目を大切にすることは、生きるという生々しい行為においては、もしかすると大切な営みになりうるかもしれないね。そんなの単なる通過点に過ぎないと軽んじて、そういう命の息吹を感じる機会を失った結果、途中経過でしかない成果や称号にばかりとらわれた空っぽな人生となってしまっているかもしれないよ。
