一般化と教養

日々

もやもや

いつも通りにやっていても、なぜか急にうまくいかなくなることがあるね。それは、複雑に絡み合う環境変数が刻々と変わっていくからであり、すべてのものはずっと静止しているわけではないからだ。天気でさえずっと晴れ間が続かないのと同様に、あなたを取り巻く様々な要因は一定ではない。そんなことは百も承知なんだけれども、特にそういう場面に出くわすまではたいていは忘れてしまっている。それと同じく過去の成功体験も、その要素を抽出して応用することに意味がまったくないわけではないけれども、あなたが整理した条件が今もなお成立するとも限らないね。あくまでもとっかかりというか、きっかけぐらいな効用しかないと考えたほうがいいだろう。もちろん、全くうまくいかないことをすぐに受け入れることが難しいだろう。でも、あなたの経験はその時の期間限定のものであって、いつまでも普遍的に通用する定理ではない。

原理

人類はその複雑な現象において、なにか普遍的で共通する原理を求めてきたわけだ。要するに世界のからくりを解き明かそうとつぶさに観察と考察を重ねてきた歴史がある。そしていつの時代にも変わらないなにかが確実に含まれており、その成分だけを純粋に取り出そうと試行錯誤してきたわけだ。そのエッセンスを元にまだ見ぬ新しい挑戦の手がかりとして便利だからね。そしてそれは確かにあるように思える。しかしながら、それらはほとんど例外もなく、かなりノイズを捨象したものとなってしまうわけだ。あらゆることが起こり、それらが複雑な因果関係を生み出す現実においては、使えるようで使えない。概念としては納得できるものであっても、実際はそんなシンプルな法則で動いているわけではないから、そこに大きな乖離がいつも横たわっているわけだ。

学術

概念の抽出や、それの記号化と記録を重ねるのが学術的な活動だね。論文という文字の羅列によって、この世の原理原則を記すことができれば新たな知見として多くの人が活用、応用ができるわけだ。いわば法則や原理がそれぞれのシーンにおいて概念が、具体的なアクションへと転換することができる。いわば学術書は生きる指南書みたいなものとも言える。それを知るには文字を読み解く必要があり、その技術が教養となるわけだ。そしてその内容を享受できるともちろん視座が増えるわけだ。だから、これは無理、とかこれはどうだ、という断定せざるを得ない事象に対して、少しばかり柔軟で寛容な態度を取ることができるようになる。したがって、あらゆることに対する姿勢も変化し、何かとすぐに決めつけることさえ慎重にならざるを得ないわけだよ。