光源はあなた

日々

あっぱれ

あまねく人に陽の光を与える瞬間を、あっぱれと呼ぶ。まさにすべての人が輝く瞬間でもあるわけだ。そしてそれは、ずっとそうではなくほとんどの場合はどこか曇っているところがあるから価値があるわけだ。そしてそれは稀ではあるけれども、でも確実にその条件がたまたま揃うことがあるし、誰しもが経験している共通認識でもある。だからこそ、それを希望として、粘り強く進み続けることができるわけだ。もしそれがずっと続くような気候の国では、おそらくは少しの曇でさえ有り難いことになるだろう。そういう意味では、あっぱれという言葉があるということは、そうした環境があるからこそのものであり、あまねく全ての地域によってそうであるとは限らないね。とても喜ばしく思うそれなのか、日常の些細なことなのか、それは普遍のことではなく、それぞれの環境要因によって全く意味が異なってくるわけだ。

意味

だからよく言われることは、それぞれに真の意味なんてなく、身も蓋もない言い方をすれば現象があるだけのこととなる。そしてそれを好ましく受け入れるのか、当たり前の日常の一コマとして見ているのか、そのことによって見ている人が価値を与えている。人生に意味がないのは現象そのものを指し、それに対してあらゆる意味を与えることができるからこそ、あなただけの世界がそこに広がっているわけだ。だから世界は何もあなたから切り離された現象に過ぎないわけではなく、それら一つ一つにあなたなりの意味を付与することで、あなたの世界が広がっている。逆に言えば、そうだからこそすぐにでも書き換えることができるはずだ。ところが、あなたの意味が固定化しているから、なかなかそううまくはいかないわけだね。それらを書き換えてしまう恐怖も一方で、あなたの世界観そのものでもあるのだからね。

機嫌

なんだかわくわくする日々と、鬱々とした日々が交互に織りなすようにくるくると回り続けてきただろう。できれば気分よく過ごす時間を長くできればいいのに、なんて思っている。その思いが強ければ強いほど、そうではない状況がないと成立しなくなる。すなわち、気分に左右される日々があなたの世界を光と影の濃淡がはっきりしている世界を生み出していることになる。強く幸せになりたいと願うことが、それと同じくらいの苦悩を自らが生み出しているなんていう事実を、すんなりとは受け入れがたいだろう。光が強く当たれば、影もくっきりと浮かび上がるように、その濃淡があなたを苦しめている。だからこそあっぱれが貴重であり、あまねく方位からの光は一瞬ではあるけれども、どこにも影が見当たらない瞬間でもある。いつまでもそうでありたいのならば、その後の影にあなたが光を当てればいい。そう、実のところその光の正体は、あなた自身の輝きだったわけだ。