従順とは

日々

教育論

いつからか、教育が方法論として扱われるようになった。それがより高度化することによって、そもそも本来の教育とはなにか、という問いは前提条件として埋没しつつある傾向にもある。メソッドとして語られ、評価される側面が次第に大きくなり、もはやその方法の是非によって教育的価値が決定されるような因果関係にあるかのようだ。そんな時代において改めてコアな部分を抽出してみると、原点に戻ることができるかもしれない。大人が子どもに、親が我が子に、学校では先生と生徒という支配関係において教育はなされるものだという思い込みが、少しずつではあるが揺れ動いている。もはやAIが個々に適切なチュートリアルを出すことによって、より効果的な知識の習得が得られるとも言われはじめてきた。本来は個別的だった生活習慣の習得から、学制によって集団化し、また改めて個々にファインチューニングしたカリキュラムになっている。しかしその目指すべき目的は、よりよい人生を送るため、というこれまた掴みどころのないのは変わらないままだ。

学ぶ

そもそも動物の生態をつぶさに観察すると、教育とは生きる力の伝承であることがわかる。それらは決して分類された教科の点数ではなく、親や先生の言う通りにする従順さでもない。一人で生きる力で最も大切なものは、誰もいない環境で生き残るための判断力や行動力を親や先輩を真似るということだ。その本能に近い部分を身につけることで、まずは生き抜くという原動力を獲得しているわけで、そこでの方法論などは特にない。学ぶとは真似るから来ていると言われているけれども、まさにそうであって上手に真似ることが生き抜く力の原点であり、それがうまくない個体は脱落していく傾向が強いということになる。もちろんそうだからと言って、絶対そうじゃないところに自然界の奥深さがある。その変化形が次の生き抜く力として発展していくこともあるからだ。そこには大まかな伝授という流れが見えるけれども、決して細かい指導が本質ではないということが見て取れる。それが学ぶことの原点と一旦まとめておこう。

生きる力

単に生き抜く力というのは、生命活動を継続し、次世代へバトンタッチする循環に必須な機能だ。そうでないとその種は途絶えてしまうからだ。しかしながらそれも当事者として見れば絶対的な必要条件だとしても、生命活動全体で見れば、それも大きな循環の一部としてみることができる。そういう活動において人類だけが特別だと思い込みたいけれども、その一部であるということは否めないわけだ。自然に順応できなければやがて絶滅してしまうリスクはいまだゼロになったわけではない。そしてその原点である生き残る力を身につけることにおいて、教育制度は都合よく改定されてきたわけだ。頭が良いことは、人間社会をうまく生き抜くためのチケットであり、点数が良いことは、そのためのいいサラリーマンになるための素養だとされている。そして、従順さなんていうのは、本来の何があっても生き抜く力から真逆で、序列のある社会組織において反乱を起こさないという為政者や権力者に都合のいい洗脳をしているだけのことだ。何かを指示しない限りじっとおとなしく待っている動物は、自然界においては生き残れないのだからね。