人間ごっこ
自由
自由を言い訳にしてはいけないのは知っているね。自由だから自己責任みたいな論理構造が跋扈しているみたいだ。けれども一見筋が通っているようで、全くそうではない。責任とは負うべき事柄を指す場合が多いけれども、それをすべて全うすることができるわけではない、どちらかというと概念や姿勢を指すわけだ。だから、引責辞任などと、批判の嵐の状況や混乱を収めるために、ある儀式というかしるしとして誰かがその場から消え去るわけだ。冷静に考えてみればそれで問題ごとが解決したりするわけではないね。ただ批判の的という役目を引き受けて、やめるという罰を受けたような行為によって有耶無耶にしてしまっているだけだったりする。それがなにか致命的なダメージを受けることは稀で、外野のノイズさえ遮断してしまえば、どうってことのないことでもあったりする。
社会的制裁
それを社会的制裁として認定し、情状酌量の要素になったりもしている。責任を果たしたのだから、それ以上はもはや問われることはないし、問うこともできないという共通ルールがそこにある。すなわち問題事はそのままで、なんの解決をもしていないことが多い。そしてそれは次の誰かに任せて、自らはそっと幕を閉じることで勘弁してもらうという構造だ。もちろんその後は要職にはつきにくいだろうし、しばらく世間のほとぼりが冷めるまでは密やかに暮らさなければならないかもしれない。実質的にはそれぐらいの罰を受けるだけで済むという見方もある。さらには、刑を受けてしっかりとそのおつとめを果たせば、それ以上は免責されるわけだ。それは社会にとっては必須であり、何度でも再挑戦ができるある程度の余白であるとも言えるね。それを知っている人は、それによって思い切ったチャレンジをすることができ、うまく行けば世の中を変えるイノベーションをもたらすことがあったのも事実だ。
人間ごっこ
すなわち現代社会においては、あなたはなにかの役割を演じているだけのことでもある。あなたであるけれども、あなたとは違う別人格や想定内の役まわりで、あるときは家族思いの父母であり、あるときは冷徹な管理職であり、あるときはだらしない酔いどれ客だったりする。それらをそのときどきによって演じ分けることで、社会的な生活を送っている。それらがまったくない人を探し出す方が困難なぐらいだろう。そしてその一部分において、なにか大きな問題があったとしても、すべてが否定されたり消滅することはない。もちろん、これまでの安定した生活や習慣は維持できないかもしれない。けれども、新たな役回りはまたあなたに確実にやってくるし、生きている限りにおいて、むしろそこからは逃げようにも逃げられないわけだ。そう捉えると、結局何がどうであっても、あなたの演じる役が変わるだけのことだと感じられるだろう。さて、今あなたはどんな役回りだろうか。
