そこにいる自分
思い出の写真
古いアルバムの中に、みんなと笑っている自分がそこに見える。でもずいぶん前だし、ちょっと古いから写っている自分はとても若くて、今の自分とは似ても似つかないよね。けれど、そこに自分がいると何故だかわかるね。別人のように若い自分がいる。ああ、これこれ、ここに写っているのが自分だと指さしたりしている。でも、もっと古くなるとさすがに覚えがない写真ばかり。だから、写っている自分を探しても、正直自信がなくて、たぶんこれが自分かな?なんてちょっと不思議な感覚の時があるよね。その時は、その写真だけじゃなくて、古い写真がたくさん貼り付けられたそのアルバムそのものを確認してみたりしているね。最近では、思い出の写真というか画像はほとんどスマホの中かな。もう印画紙なんて言葉は誰も知らないかもね。紙の写真を集めたアルバムには1989とか年代が書いてあったりする。その書いてある年代を手かがりに自分を探しているなんて、ちょっと面白いね。もはや写真の中の自分すら見失ってしまっているのだからね。そこに写っているのは一体誰なんだって思っている。
記憶とのギャップ
そうやって、数々の思い出がアルバムを開いた瞬間に目の前に現れているんだけど、それは壮大な物語の切れ端がどんどんつながっていくような感じがするね。アルバムをめくる瞬間に今ここでその物語が展開されていくっていうのかな。ああ、そう言えばそんなこともあったなと今思っている。今思い出が作られている感じというか、なんだか懐かしいんだけれど自分じゃない誰かのお話みたいな、ちょっと自分だけど自分じゃない感じで見ている。改めて自分と思しきものが写っている写真を眺めていると、今まで頭の中で思い描いていた自分史がずいぶんとねじ曲がってしまっていることに気がつかされるときがある。あれ?思い出ではここで写真を撮ったはずなんだけど、ここだっけか?なんていう差異が生まれている。記憶なんて良い感じに書き換えられているんだね。となると、書き換えられた自分史の上に積み上げていった今の自分は一体何者なんだろうね。
風景の一部
なんだか、ずっと見てると、過去の自分らしき人がそこで笑っているんだけど、どうも自分ではないような感覚になってくる。覚えている思い出も相当曖昧で怪しくて、まるで今朝起きた時に中途半端にダウンロードされた映画のように感じてくるね。ちょっと変な感じだね。で、これがあなたの思い出の写真よと見せられているけれど、そのよくわからない写真がどんどん新しい物語を生み出している。まるでわたしの思い出というストーリーを今そこで生み出しているかのようにね。写真に写る自分は、もはや風景の一部に溶け合っている。それを見ているのは誰かというと、見ているのも自分だと思っていたけれど、むむ、自分さんって本当は誰なの?