おたがいさま

色々

助け合い

ほんの200年前は、共同体で身を寄せ合って助け合って生きていた。今では忌み嫌われる「村社会」だったね。助け合い、譲り合い、困った時はお互い様なので、知らず知らずのうちにルールや掟がどうしてもできてくるね。その決まりにどうしても合わないと判断されたら、村八分になったというね。村八分とは十個の助け合って協力していることを、火事と葬式だけしか助けないということらしいね。ともかく、人は人に助けられて、支えられて生きていた。振り返って今はどうだろう?シェアリングエコノミーなんていう言葉で、あげます、くださいというちょっと前では当たり前だったやりとりが復活している兆しがあるね。資本主義社会では、村から都市へ労働と子育ての現場が移り、村の掟などを気にせず、その代わり貨幣がすべてになった。その分何をするにも「助け合い」より「だれかにお金でやってもらう」ことになったね。それを自由だとみんな謳歌してきたね。

お金は便利品

今でも農村部で暮らしていると、農作物のあまりとか、足りないものをお互いにやりとりする習慣が根強く残っていることに気づくね。それを鬱陶しいと思う人は都会で暮らしている。都会でも昭和な時代までは、醤油借りたり、お鍋借りたり、滅多に使わないものは買わないで借りたりするやりとりがまだ残存していたんだよ。今でも町内会やご近所付き合いとかが色濃く残っている地域もあるようだね。それで、貨幣や人権がすべての現代人とのいざこざが起きたりしている。助け合いという共同体に従わない考えの人が混じると、かつての村八分のようなことが現代でも起こっているね。お金は助け合いや村の法から自由になれる魔法のツールであったわけだね。それが現代の生活の基本になっているんだよ。決して当たり前ではないことに気づくね。

揺り戻し

そうして、お金を稼ぐために人は労働するようになった。逆にお金がすべての社会ではそうしないと生きる手段がなくなったからだね。辛い労働をして、その辛さを解消するために消費する。もう自分でも何をしているかよくわかっていない人も多いんじゃないかな。お金を得るために働いているのに、お金を得た瞬間に生活に消えていくね。うまい具合にお金がちょうど余らないぐらいにしようしている。あなたが稼いだお金をまた誰かが得て、それを生活のために使う。「金は天下の回りもの」なんて教えられている。その循環ができれば、誰もが死ぬまで生活のためだけに、ずっと働き続けないとダメになる。よく例えられるのは、ハムスターがくるくる回る走り車を走っているがごとく、走っても走っても1ミリを前には進んでいない状態だね。そうやってあまりにお金至上主義になりすぎてしまって、今はその揺り戻しでフリーマーケットやあまったものをうまくみんなでシェアしようとしている。共同利用という名前に変わっているが、人類の歴史としてはずっと続けてきた生活様式、つまり、身を寄せ合って助け合って生きている時代に戻っているような気がするね。あげたりもらったりしてお金が介在しない社会が、村の掟を乗り越えて次はどんなルールがそこで生まれるのか楽しみだね。