おしゃべり

日々

話が好き

おしゃべりは楽しいね。言葉という道具を使って、声をあれこれと発しているだけなのにね。ピーチクパーチク鳥がさえずるように、声をいろいろ出して誰かと情報のやりとりができるってこと自体が素晴らしい体験だからだよね。他の誰かっていうのは実はそこにいないとしても、いつも誰かと会話しているね。言葉で会話するっていうのはごく当たり前のように思っているけれど、本当はとてもすごい能力じゃないのかな。一方で会社の会議での発言は論理性とか整合性を問われるからそれ自体が億劫になるね。そうじゃなくて、気の向くまま、その流れのままに言葉をやりとりすること自体はとても楽しいね。同じ声を出していろんな発音をしている作業なのに、どうしてこうも楽しさが違うのだろうね。

気の向くまま

論理性とか整合性とかを気にして、体裁を整えて何度も練習をした発言や会話には何の意味もないことに気がつくね。それはもはや発言する必要もなく、文字という記号に起こせばそれで完成だよ。でもそれをまたわざわざ言葉という音に直す作業をなぜかしているのは、文字では見えない声という音を聴くことで、本能的に文字情報以外の何かを掴むことができるからだね。声色や話し方の緩急、表情や体の動きなどをみて何を伝えたいのかを見抜こうとしている。それだけ文字になった言葉の意味自体は、コミュニケーションにおいては重要ではないってことだね。

おしゃべりな九官鳥

堅苦しくない場所で友人とたわいもない会話をするときは、心が落ち着くね。それは、疑いの目で本心を見抜いてやろうという視線にさらされている前での話とは全く違うからね。どちらかというと本心を言葉だけでなく、あなたが持っているすべての表現能力をフルに使ってどうにか相手に伝わるようにしているね。基本伝わらないから、それが10のうち1でも伝わるだけでも、十分な達成感と満足感が得られるね。だからおしゃべりは楽しいね。まるで見込みのない片思いの相手に告白しているかのようだね。思いを伝えるには言葉は不十分だけど、言葉が見つからないとかそもそも言葉で伝えられないとかそれ自体も言葉で伝えるしかない。もう、生きることそのものが言葉でできているね。言葉でしか伝えられないこの世界には、むしろ言葉がそこにあるだけなのかもしれないね。あなたとわたしも言葉だから、あなたもわたしも言葉でできていることになるよ。