おひとよし

日々

性善説

あなたは本当におひとよしだね、と言われる場合は、少なくともあんまりいい意味では使わない言葉だね。善人すぎてすぐに騙されるとか、無条件に相手の言いなりになっているとか、そういう皮肉を込めた言葉の表現がおひとよし。でもおかしな話で、騙すより騙される方がいいとか、人を疑って生きるくらいなら、信じてゆだねて生きる方がいいとか、そんなことも言われたりする。まぁ、結局はどっちも必要であり、コインの裏表のように両面があっての関係性ということになるんだろうけれど、おひとよしという言葉はそもそもいい意味が含まれていると感じるのは変なことなんだろうか。

何も知らないのに

近しい仲間でも、すべての面を知っているわけではない。さらにそもそも心の中は見えないもの。でもあなたが勝手にわかっている風になって、まるで同化していると勘違いするぐらい、手に取るように心の内もわかったつもりになっている。そんな関係性のときは良いやつだと呼ぶね。一方で近くにいるんだけれど、ずっと心を閉ざしたままで、何を考えているかわからないし、そもそも手の内が読めないような存在に対しては気が抜けない。そういう関係性では良いとか悪いとかも判断できないね。でも、よくわからないなら悪いと決めつけたりしているんじゃないかな。そうやって、関係性も両面から構築されていくんだよね。知らないのに知ったかぶって良いやつだと決めつけたり、わからないのはみんな同じなのに、知ったかぶりができないか、もしくは悪い知ったかぶりができる関係を悪いやつと決めつけたりしている。そう、どちらも何の根拠もないことに気づくね。結論としてはあなたが決めているだけなんだよ。あなたの都合で良い悪いとレッテルを張っている。

都合が良い

人を判断するときに身近な距離から遠ざかると、もはやそんな関係性すら構築できない。身近にすぐそばでずっといるわけではないので、都合が良いか悪いかで善人悪人というキャラクターが決まるね。だからテレビや新聞でいい人とか悪い人とかいう場合は、例外なくすべて「誰かの都合」にあっているかいないかでしかないね。人として良いとか悪いとかという面で訴えかけているのは、その方が伝わりやすいからだけであって、そんな観点で語っている話は全部眉唾だから、決してそのまま受け止めない方がいいね。いい人か悪い人かなんて身近にいてもわからないのに、遠目に見て決められる話ではないよ。そもそも距離感と視座が全く違うからね。それなのにいい人になりたくていい人を懸命に演じている人が多いのはどうしてだろう。いい人なんてそもそもどこにもいないし、いい人という関係性自体が必要がないね。一方で、都合のいい人、悪い人だったらたくさんいる。都合のいい人になるなっていう意味でおひとよしという言葉ができたのかもしれないね。いや、そもそも良い悪いという枠組みそのものがおかしいことに気づかせてくれる言葉なのかもしれない。