効果音

日々

音と気持ち

ショックなことがあるとガーンという音で表現される映像や文章や劇画があるね。しかし、ガーンという音が当てられるのはどうしてだろうね。びっくりするぐらい衝撃的なことが起こるとガーンと表現できるのは、後からそういうものを見て学習したというのが大きいのかな。それでもガーンという表現がなくならないところをみると、案外多くの人に受け入れられて共感されているんだろうね。こういう言葉での感情表現は擬音語とか擬態語が絵とともに使われることが多い。今のTV番組で効果音がない番組はなくなってしまったかもしれないね。報道番組でさえ、効果音でなくてもBGMなど音楽を使っている時代だもの。

すべて震えている

現代の科学では、音は空気が振動して伝わっているとする。つまりものが震えて音がでる。震える回数で音の高低が決まり、とても速くなってしまうとヒトの耳では聞こえなくなるね。これを超音波と呼ぶらしい。もっと速くなると電波になり、見えないし聞こえない。でもそれ以上に周波数があがると可視光線という光になって今度は目で見えるようになる。不思議だね。それ以上になるとレントゲンで使われる放射線となり、ものを突き抜ける波になる。まぁ、音は見えずにそこにあって次第に減衰して聞こえなくなるね。「祇園精舎の鐘の声」なんて表現されるぐらいに諸行無常の代名詞になっていたりする。心を揺さぶる何かというのは、そういう波があるのかもしれないね。

世界は音でできてる

詳しいことは現代物理学を少し覗き見してほしいと思うけれど、すべては波動でできているという一旦の仮説が出ているね。ものがそこにあるのを見たり、聞いたり、触って確かめたりできるのは、震えているからできるんだって。だから震えることをやめたら永遠の静寂につつまれるね。震えることはやがて鐘の声のごとく減衰していくことが世のことわりであれば、そのあなたの普段からの感情や気持ちのすべては振動でできているってことになるね。だから効果音には擬音語、擬態語という言葉で表されることが多いのかもしれない。しかも、それが多くの人に受け入れられているのは、ある決まった振動で起こる音やようすが伝わるからなんだね。キュイーンとショックな人がいてもいいのにそれはないのかな。しかしそうして音の世界から言葉の世界に閉じ込められていることも同時に知っておこうね。世界は音でできているけれど、ヒトが言葉に翻訳して言葉の世界へと変換しているんだね。よく音楽ではそう言われることが多い。音楽は感じるものであって考えるものではないってね。考えた途端に言葉の世界に引き摺り込まれてしまうからだって。なるほど、生きるってことは音楽のようなものかもしれないね。