非難ゴーゴー

日々

批判と批評

似たような言葉の使い分けは難しいね。批判と批評の違いなんてあってないように感じる。でも強いて言えば、批判は判断が入るので、良い悪いを明らかにした上で、判断を下すこと。批評は同じく良い悪いを明らかに論評することにとどめることをいう。批評は判断を下さないとはいえ、良し悪しをある視点から決定的に論ずることなんだから、もはや判断と同じになるよね。いずれにせよ批判や批評の若干のニュアンスの違いなんかを考えたけれど、非難することではないね。非難は究極的に言えば悪口でしかない。批評は批判には良し悪しをあげていて、何かの改善のきっかけにという希望が根底にある。けれど非難は欠点のみをあげつらっていて、そこには絶望しかないね。言葉の霊をこうして考えてみると、使っていい言葉とやっていいことがだいたいわかってくるね。

言葉の暴力

言葉にもそれだけの力があって、使い方ひとつで暴力に変化する。暴力っていうのは何もフィジカルなものを破壊するという意味を超えて、精神的な破壊に関しても暴力という言葉があてがわれるようになったね。ハラスメントなんていう言葉も最近では多く聞かれるようになった。ハラスメントのおおまかな意味としては嫌がらせなんだけれど、暴力と嫌がらせは根本的に違うね。破壊するほどの力の濫用を暴力と言うけれど、嫌がらせは破壊を伴うこともあるけれど、基本的には破壊を目的とはしていない。相手に対して嫌がることをするのがハラスメントの本来の意味。だけど暴力とハラスメントも現代では、同じ言霊の仲間として使われ始めているね。

言葉にできない

何もかも言葉で説明することはできない、という何となくの共感があるね。すべて理屈通りに言葉の意味とその言葉が持つエネルギーも鑑みて、どんなに巧みに言葉を並べて表現したところで、果たしてどのくらいの人に伝えられるのかという制約と絶望がそこに見え隠れする。確かにそうだろうね。ただ、言葉にできないという言葉で、その共感が生まれているとするならば、言葉にできないことがきちんと通じていることになるね。そこが言葉の本質なんだろう。言葉にできないよ、という一言でエネルギーすら表現できているんだから。だから、あらゆることを言葉を尽くして表現するも、そのすべてを言葉にすることはできない。けれども、その悪戦苦闘そのものはなぜか簡単な表現で伝えることができるんだよ。ひとつひとつ何気なく使っているけれど、言葉をもっと大切に使ってみると人生も変わるね。