自己紹介の罠

日々

説明できる

普段から説明することができるものは、あなたが理解しているものだね。簡単な例で言うと、「あの少年は山田くんです」なんて言うことができる。山田くんを知っているから説明することができる。説明は大抵は言葉ですることになるね。もちろん、絵を描いて説明することもあるし、その方がわかりやすかったりもする。機械の部品の役割なんかは絵にした方がいいことが多いかな。「この小さなギアはディファレンシャルギアを作動させます」なんて言いながら絵もあるとぐっと伝わりやすいね。その究極というか、現代ではよく使われるのがプレゼン資料と呼ばれるものだね。それは簡単なテキストやグラフや図やデフォルメされた絵、あとは音声や動画なども織り込めるし、簡単なアニメーションなんかも作成できるので、それらを駆使してとにかく伝えることに全力を尽くす道具として今も活躍しているんだろう。一方で、いちいちプレゼン資料にするのを禁止している組織もあるね。結局伝えたいことを資料に全部詰め込むと、その場で話すことがなくなってしまう。そうすると単に資料を読み上げるようなプレゼンや会議ならやらない方がいいという判断だね。いずれにせよ、説明して伝えることがどれだけ難しいかということ表しているね。

自己紹介の違和感

学校や会社ではいつも相手に伝えるというコミュニケーションをとっているわけだけど、話す方はどうも苦手なんだよね、という方が多いのかな。うまく説明しようとすればするほど、何をどう話していいのかわからなくなってその結果自分が自分で何を喋っているのかわからなくなってしまう。自己紹介してくださいなんて言われると、場数をそれなりに踏んでいると決まりきった定番の挨拶文を密かに持っていたりするんだけれど、そんなこと初めてするってなると、自分を説明するなんてとんでもなく難問になってしまうみたいね。その違和感というか感覚は大切にした方がいいよ。あなたのことをあなたがうまく話せないのは、そこに落とし穴があることに気がついていないけれど違和感として感じ取っているからなんだよ。

わたしは誰

わたしは山田です。趣味は釣りです。最近はキャンプにも出掛けるようになりました。なんて自己紹介を始めるも、小学生の夏休みの絵日記みたいな言葉しか思い浮かばなくて困ったりする。そこからフリートークで自分でテーマを決めてなんて、もう一体何を話せばいいのかおどおどしてしまう。でも、それが自然なんだよ。わたしは山田です。ここに違和感が生まれる。わたしは山田ですと話しているあなたは誰なんだということ。わたしは山田ですと説明できるもう一人の誰かがそれを見て話している違和感だね。「あの少年は山田くんです」と説明している誰かはあなたから認識できるけれど、わたしは山田ですと話したとたんに、それを言っているのは誰なんだという条件反射が起こっているから、嘘っぽく感じるわけだ。

言葉の壁

わたしは山田です、という文章には破綻があって、それを説明している誰かの視点がないと成立しないからだね。一人ぼっちでは、わたしは山田です、とは言えない。鈴木や佐藤や田中などの山田以外の姓が必要となる。わたしのことを説明できるということは認識しているということ。その瞬間に観察している人がもう一人必要になる。ここに言葉の壁があるね。一人称で説明できないのは、わたしではないものが必要だからだね。逆に言えばわたしはわたし以外のすべてだとも言える。わたしの話をしようとした瞬間に、もう一人のどこかからみてるわたしが必要になるから、わたしの説明はいつもごまかすことになるんだ。だから決まりきった嘘っぽい自己紹介で大丈夫なんだよ。安心してね。