値踏み

日々

不幸の値段

忌々しく嫌われているけれど、不幸の値段も相場があるね。これがあるから損害賠償請求などが成立するんだね。もちろんすべてお金で解決できるという倫理観はそこにはないけれど、ある程度そういう損害に対してこれぐらいの弁償をしなければならないだろうという計算ができないと、損害賠償制度そのものが成立しない。当事者ではないものから見ていると、そんな金額をもらったところで何か心の拠り所というか助けになるんだろうかと思うけれど、現代ではそれぐらいしかできることがないことも確かかもしれない。とにかくそういう不幸の値踏みは忌み嫌われているね。なんでも値段をつける行為自体が疑問視されている。けれど、金は全てではないにしろ、何かしらの賠償をするとなると結局は不幸の値踏みが実施されるのは紛れもない事実だね。

償い

お金というのは、本来ありがとうという感謝の度合いを表している。ありがとうの連鎖でこの社会は成り立っているから、それをお金という物質で代替しているだけなんだよね。お金そのものは紙切れにすぎないし、金属でしかない。それも金のような本来の価値をもっているものでもなく、それほどの価値もない金属でできている。単なる印としての貨幣なので、そのものの価値がない方が交換手段としては適しているからそうなっているね。お金が全ての世の中になって久しいけれど、だからといって貨幣そのものを集めるマニアはそれほどいないね。貨幣そのものうんぬんよりもトータルの額面にしか興味関心がない。そしてそれは数字という記号でしか表されないものだから、その記号を欲しがっているのが現代社会だね。お金が全ての資本主義社会はいわばすべてを記号化する社会とも言えるね。

お金の正体

結局はありがとうの数を記号化したものがお金だとすると、お金そのものを集めることが幸せとは繋がっていないね。逆にありがとうという人がたくさんいてくれれば、それだけでお金は不要であるということにもなる。だから何億円という記号化されたお金を持っていても、ありがとうという人が周りにいなければ、その記号を使って何かをしてもらうことになる。すべてがお金という社会はこのことを指し示しているね。誰にも頼れないからこそ、お金しか助けてくれないという構造になっているわけだね。逆にいろんなことをしてくれる人が周りにいれば、お金は全く必要ないことに気がつくね。いろんな人が共同で自分の身の回りのことを世話してくれているなら、お金という記号をわざわざ集めなくても暮らしていけるわけだね。その性質がわかっていればお金の量という記号と幸せが比例しないということの理由がわかるはずだよね。お金ができてたかだか5000年ぐらいだから、いろんなことを値踏みするのに慣れていないのも当然と言えば当然というわけだね。