キャッチフレーズ

日々

言葉のパワー

端的に表現された世界は広大なスケールになるね。言葉の力は時空をも超えて、目の前の現実をも変えてしまうほどのパワーを秘めている。もちろん上滑りの耳障りの良い言葉を羅列してもそんな力は発揮されないね。言葉を紡ぐというのはそこを超えた文脈を自らが生み出すこと。とても簡単ではないけれど、すぐそこに転がっているものでもあるね。その転がっているものを余す所なく言葉で閉じ込めたものがキャッチフレーズになるんだよね。それは画家が絵の中でそれを表現するし、音楽家はメロディーに変換するし、パフォーマーはその演技の所作で表すかもしれない。しかし全ては言葉で認識されるね。あらゆる表現があったにせよ、最後には言葉に変換されているんだよね。

無から有へ

言葉の世界で全ては出来ているし、その言葉の中に生きることそのものがある。いやいや言葉にできないことだらけなのが現実世界だという反論もあるね。確かに「言葉にできない」こともたくさんあるようだけれど、「言葉にできない」という言葉があるというパラドックスがそこにはあるね。数多ある表現方法の中で一番の強力な武器は、やはり言葉になる。映像だって音楽だって、彫刻であっても認識される圧倒的な何かとは、全て言葉によるものだね。言葉の世界は分離の世界だから「言葉にできない」心と言葉で区別された「世界」が引き裂かれて、そこに何かを見出している。そしてそれは素晴らしい体験を産むけれど、心が引き裂かれて生きることそのものが苦でできているとも言えるね。

観念

言葉そのものが持つニュアンスや意味がはっきりしているようで、曖昧さも含んでいるね。同じ言葉でも文脈で意味が大きく変わったりする。もしくは外来語をどう母国語で表すかという翻訳の際に、翻訳者の解釈によって大きく変わってしまうことがある。思い考えることを思考といい、観念はこの思考する一連の流れを表す意味として使う場合が多いかな。しかし観念という言葉一つとってみても、共通するイメージがそこに存在しなければ記号としての言葉の役割が大きく変わってしまうね。変わることがよくないことだと言っているわけではなくて、変わる幅をわざと含ませて敢えてそうするっていうこともある。あらゆる観念、この場合の思考を止めたらどうなるかな。思考は言葉で行うものとしたら、思考をやめるということは言葉を捨てるということだね。この場合の観念は意識に近くなるかな。どう頑張ってもできそうにない。それこそ死んだものと観念することになるね。