群れるな、集うな、つるむな。

色々

人類がまだ一定の身内の群れで移動生活していた頃は、伝染病にやられるリスクは少なかった。
最悪そのバンド(集団)だけがやられて終わりだった。
農耕定住生活が始まり、群れから集落を作り、人々は分業化して寄り添い助け合って生きる社会を構築した。
その密度が高まるにつれて、流行病という恐怖が生まれた。

そこから産業革命や機械化を経て、現代社会の構造ができあがったわけであるが、基本構造としてはやはり「人々に寄り添って」「助け合って」生きるという部分は大きくは変化していない。
コロナ禍はそこを炙り出した。

ネットワークが発達してリモートでお話ししたりすることは容易になっても、結局の生きる体験というのは「触れ合い」そのもの。代替品になりそうでおそらくはならない。
生き物としての人類は密になり触れ合いよりそうことで次世代の命を育むという構造であるから。哺乳類は特にそうして子供たちに様々なことを伝え続けているのである。

では、未知のウィルスというのは排除すべき悪であるのか。

人が命を繋いでいくのに、他の動物の命をいただきながらいきるとすれば、共存するというのが流れであろう。
これからも新型というか未知のウィルスとともに生きるということしか方法はないように思える。ならば、叩き潰して根絶するという考え方や方法論はとるべき選択ではないように見える。
そろそろ、恐怖で敵を叩き潰すという視点から、共に生きるためにはどうするかという視点へチェンジする段階なのではないだろうか。
恐怖から始まるとどうしても感情的になる。感情的になると展望は考えにくい。展望があやふやだから身近な自分とは違うものを叩き潰す傾向が強まる。気がついたら自分の足元以外ぜんぶぶっ壊している。

実はそれが人類の一番の弱点なのかもしれない。