行動と情報
情報化時代
今では情報がすぐに記号化(文字化)されてデジタルデータとなり、正確無比に記録され、論理的に整合した完璧に編集されたものが行き交っている。会議のあとにはすぐに議事録がメーリングリストに流れ、プレゼンでは美しいグラフと図案でとても簡潔にまとまっている情報の塊となって提出される。これだけ美しく端的に情報が整理されてやり取りされているのにも関わらず、人間関係はうまくいかないどころか、むしろ悪化してすれ違いが解消していないのはなぜだろうね。さらに電話ではなく言った言わないの問題も生じにくいテキストチャットでお互いの気持を言葉化して共有しているにも関わらず、言動不一致な相手になんとなく腑に落ちないモヤモヤを抱えてしまっている。これほど正確に情報があっというまに駆け巡り共有される時代だというのに、隣同士で会話するにもSNSを通してでしかできないなんてね。
産業革命と情報
明治政府が一斉授業を導入した理由は、情報を正確に素早く伝達する必要からそうしたことは有名だね。工業化によってマニュアルに指示された通りに、素早くそれを理解して正確に動くことができる人材を大量生産する必要があった。だから一方的に先生が生徒に情報を伝えるという形が教育という名のもとに導入されたんだね。その場合は生徒同士のおしゃべりはノイズでしかないから厳禁となる。そうして今でも授業という形がまだ明治時代のまま残っていたりする。1980年代からマルチメディアとかインタラクティブという言葉で、双方向な情報のやり取りがもてはやされたのもそういう背景があったからだね。テレビもラジオも新聞も情報は一方的に発信されるものだった。時を同じくして、ヒト、モノ、カネという経営資源に情報が加わって強調されたりもしたね。もう今はそんなことしないけれどね。
モノとしての情報
マニュアル化された人生と言ってもいいぐらい、一意に伝えられた情報に従って正確に理解し行動できることを有能だとか優秀と呼んでもてはやした。未だになぜか高学歴芸人とか、クイズ東大王とか名付けたりしているね。学歴も東大も正確に情報を記憶できているかどうか、という点においてのみ優れているとされているだけだから、クイズぐらいしか役立たないという皮肉を込めているのかな、なんて思ってみたりもするけれどね。とにかく参考書を正確に理解して問題集をクリアしていく能力が優れているのと、相手の気持を先読みして自らの行動を変化させることで世界を変える力を持つのと、本来の意味での理解とはどちらなのかは明らかだね。情報の正確さを競う時代はすでに終焉を迎えていることにも気が付かないのは、情報を単なるモノとしてやり取りすることしか教わっていないからだろうね。モノとして扱う情報が本来の役割を担うには、それを行動に翻訳して生命の息吹を吹きこんで再生する必要があるっていう単純なことなんだけどね。